[ Main Page ]

改訂版

医療における裁量と例外決定の政治哲学

——オーストラリア医師登録制度の構造分析——

一 問いの起点——なぜ英語試験から始まるのか

オーストラリアで医師として働くための道筋は、表面的には医師登録の手続きや英語試験の攻略法を語っているように見えるが、実際にはもっと深い構造的な問題を内包している。提起されているのは、単なるキャリア指南ではなく、医師という職業の本質、国家による資格管理、そして例外を決定する権利をめぐる政治的な問題である。

AHPRA(Australian Health Practitioner Regulation Agency)への登録に際して、日本人医師が最初に直面するのは英語試験という壁である。IELTS、OET、PTE Academic、TOEFL iBTのいずれかで基準を満たすことが前提条件とされており、これをクリアしなければ登録のいかなる経路も開かれない。しかし、この「最初の壁」は実務的な手続き上の障壁であるにとどまらない。それは制度が「誰を医療判断の主体として認めるか」を決定するフィルタリング装置の第一段階として機能している。

OETとIELTSの性質の違いは、単なる受験テクニックの話ではなく、何が「医療に必要な英語力」として定義されているかという制度設計の問題に触れている。OETは医療現場での実務的コミュニケーション能力を測る。その中核であるWritingは、紹介状(referral letter)の作成を求める。これは、患者の経過を要約し、専門医へ委ねる理由を明記し、引き継ぐ情報を整理するという作業であり、日常の臨床業務に極めて近い。臨床経験のある医師にとってはいわば「仕事の延長線上」での試験であり、再現性が高い。

一方、IELTSのWritingは医療とは無関係のテーマについて、論理的なエッセーを2本書き上げることを要求する。構成、文法、語彙、内容のすべてで高い水準が求められ、目標スコアの7.0到達が最大の難関となる。Listening、Reading、Speakingで基準を超えながらも、Writingだけが6.5にとどまり数カ月から数年を費やす医師が続出するのは、この試験が測定しようとしているのが「医療現場での伝達能力」ではなく「抽象的思考の言語的構築力」だからである。

OETが医療現場で「理由を伝える能力」を測定しているとすれば、その核心は「私はこの患者を、こう判断し、この専門家に、こういう理由で委ねる」という裁量の言語化そのものである。OETは最初から「You can decide — but can you explain why?」と問うている。英語試験は医療制度への参入資格の確認であると同時に、例外を決定する主体にふさわしいかを最初に問い質す装置でもある。

二 AHPRAという装置——資格管理から判断権限の配分へ

AHPRAは国営機関ではなく、Medical Board of Australiaなど各職種の専門委員会が共同で運営する独立性の高い公的機関である。その最も中心的な役割は、全医療従事者の資格の評価、登録、監査を行うことである。AHPRA登録がなければ処方、診察、紹介状作成、勤務医としての従事など医療行為が一切できない。逆に登録さえあればオーストラリア国内で州をまたいで働くことができ、医師としての活動に必須の「基盤」である。

AHPRAという装置が行っているのは、医師を守ることではなく「誰が例外を決めていいか」を可視化することである。英語能力を測り、判断履歴を追い、州を越えて資格が通用し、逆に剥奪も一元化される。これは「例外決定者の資格制度」そのものである。日本との比較で矛盾が一気に噴出する。日本では医師免許は身分であり、裁量は黙認されており、例外は語られない。失敗は個人化され、成功は制度化される。オーストラリアでは医師資格は契約であり、裁量は委任され、例外は記録され、失敗も成功も「理由で」検証される。

日本人医師がAHPRAへの登録を目指す際に原則適用されるのは三つの経路のみである。Standard Pathway、Short-Term Training Pathway、そしてSpecialist Pathwayである。英国、アイルランド、ニュージーランド、米国、シンガポールなどで研修を修了し現地の医師登録要件を満たしている場合に限り対象となる「Competent Authority Pathway」というルートも存在するが、日本の医師資格のみでは対象外となる。この三経路の構造は、「国家が医療における判断権限をどう配分するか」という統治設計そのものを示している。

三 Standard Pathway——ゼロからの裁量委任

AMC試験という事前選抜

最も多くの国の医師が利用しているのがStandard Pathwayである。このルートは、オーストラリア医学評議会(AMC)が実施する筆記試験(AMC CAT MCQ Examination;Part 1試験)と臨床試験(AMC clinical examination;Part 2試験)の両方に合格した後、病院からの雇用を経て監督付き勤務(Supervised Practice)を行うという構造をとる。日本の医師免許と基本的な臨床経験を持つ医師であれば専門医資格の有無を問わず対象となり、オーストラリアでの長期的なキャリア構築や移住を目指す医師に最適なルートとされている。

特にAMC Part 2試験は、海外出身の医師(IMGs)に対する知識の再確認と患者中心の診療姿勢の検証を目的としている。試験では説明能力、倫理的判断、文化的理解が重視される。オーストラリアの医療現場では患者への説明責任(インフォームド・コンセント)や共有意思決定(shared decision making;SDM)が徹底して求められるからである。AMC Part 2試験は「非常に難関」であり「複数回の受験を要する医師も少なくない」とされる。英語での即時応答や模擬患者への説明、共感、論理展開などが高いレベルで求められる。この試験が測定しようとしているのが単なる医学知識や臨床技能ではなく、模擬環境において「患者中心の診療姿勢」を演技し、「説明能力、倫理的判断、文化的理解」を短時間で示す能力であることが、難易度の核心にある。

WBAという実践的監査

近年AMC Part 2試験の代替として注目されているのが、WBA(Workplace-Based Assessment)制度である。筆記試験(Part 1試験)合格後に、臨床現場で実際の診療を通じて評価を受ける仕組みであり、6カ月間から12カ月間の期間に複数の評価(mini-CEX、case presentation、multi-source feedbackなど)を受け、総合的に医師としての能力が判定される。試験対策が相当求められるAMC Part 2試験と比べ、患者対応・チーム連携・臨床判断・記録能力を実際の職場での日常診療を通じて評価されるこの制度は「実践的で、現地の教育文化に沿った方法」であり、AMC Part 2試験に苦戦する医師にとっては「まさに救い(gift)」となる選択肢と評されている。

WBAを実施する病院は、以前では各州で1施設程度に限られ、しかもその多くは地方やへき地に位置していた。そのため、WBAを希望するIMG医師は遠隔地の病院に赴任する強い覚悟と決意が求められた。しかし近年、WBA制度の有用性が広く認識され、現在ではオーストラリア国内で約20〜30の公立病院がWBAプログラムを運用している。採用枠は依然として限られているものの修了者の多くがそのまま現地に定着しており、制度の吸引力を示している。

WBAという制度の本質は「裁量行使のリアルタイム監査」である。mini-CEX、case presentation、multi-source feedbackといった評価方法は、すべて「この医師は実際の臨床判断において、なぜそう決めたのか、それを説明できるか、他者からの批評に応答できるか」を検証する装置である。AMC Part 2試験が「能力があるかどうか」を事前に判定しようとする予測モデルであるのに対し、WBAは「能力を発揮しているかどうか」を事後に検証する実証モデルである。前者は演技型評価、後者は実践型評価という本質的差異が存在する。

地方やへき地でのWBA実施は偶然ではない。地方やへき地は「例外が常態化する場所」である。標準治療が通用しない、リソースが限られる、専門医がいない、患者背景が複雑、時間的余裕がない——こうした環境では医師は常に例外判断を迫られる。WBAをこうした場所で実施することは「例外を決める耐久力」を最も厳しく試す設計として機能している。近年WBA実施施設が増えているのは、オーストラリアの医療システムが「地方医療の維持」という政策目標と「裁量を持つ医師の育成」という教育目標を統合したことを意味している。

Limited RegistrationとGeneral Registration

AHPRAの定義上、正式な勤務はAMC Part 2試験合格後またはWBA修了後とされている。しかし実際には、AMC Part 1試験のみの合格後にも、病院やAfter-Hours GP(時間外診療所)での勤務を開始できるケースがある。雇用の約束があることが前提となるが、この場合「Limited Registration(Area of Need)」と呼ばれるポジションで監督医の下、現場で経験を積みつつWBAプログラムまたはAMC Part 2試験を目指すことができる。

Limited Registration(Area of Need)という制度は「裁量の段階的解放」を体現している。AMC Part 1試験のみの合格者は完全な裁量を持たないが、監督医の下で「限定的な裁量」を行使できる。これは「黙認された裁量」から「委任された裁量」への移行期間である。雇用の約束があることが前提であるという条件は、裁量を委任する前に組織が「この人物に裁量を任せてもよいか」を事前に判断する必要があることを示している。裁量は技能ではなく信任だからである。

AMCの2つの試験に合格し12カ月間の病院勤務(internshipまたはsupervised hospital rotation)を修了すると、AHPRAからGeneral Registrationが付与される。この一般登録を取得すると独立して診療を行うことが可能となり、多くの医師はこの段階でオーストラリア永住権(Permanent Residency)の申請資格を得る。WBAを選択したIMGsは、WBA自体が12カ月間の臨床ローテーションとして構成されており、この期間の勤務をもってAHPRAのGeneral Registration要件を満たすことができる。つまりWBA修了時点で臨床能力が評価されるだけでなく、その過程で求められる12カ月の監督下勤務の条件も同時に充足される。

General Registrationが付与されると「独立して診療を行うことが可能」となり「多くの医師はこの段階でオーストラリア永住権の申請資格を得る」という連動は、医師資格と市民権の関係を示唆している。「独立して診療を行う」とは「例外を自己の名で決定できる」ことであり、国家が「この人物を最終判断者として承認した」ことを意味する。永住権の申請資格を得るということは、医療における最終判断者が社会の構成員として認められるということである。医師は単なる技術者ではなく、社会の意思決定構造の一部として組み込まれる。

四 Short-Term Training Pathway——管理された参加

Short-Term Training in a Medical Specialty Pathwayは、専門分野での短期研修を目的としたルートである。6カ月間から2年間の期間限定で、大学病院や公的医療機関で臨床に参加することができるものであり、いわゆる「フルライセンス」を取得するものではない。対象は日本ですでに専門医資格を取得している医師、もしくは専門科目のトレーニングで2年以内に専門医を取得できる見込みの医師であり、英語試験の基準はStandard Pathwayと同等だが、AMC試験などがない分より短期間で現地の医療チームに加わることができる。

また、研究目的で大学や研究機関に所属・滞在する医師にとっても非常に実践的なルートである。指導教官(supervisor)が臨床ディレクターを兼任している場合や臨床部門との強いコネクションを持っている場合には、指導教官のネットワークを通じてShort-Term Training Pathwayの登録を行い、研究と並行しながら臨床業務に従事することも可能となる。研究成果の実績を積み上げながらオーストラリアでの臨床生活をスタートできるこの経路は、日本人医師が初めてオーストラリアの臨床現場に参加するのに多く利用されている。

さらに、6カ月間から2年間の期間限定登録とされているが、将来的にはStandard PathwayやSpecialist Pathwayへの移行も可能であり、環境が気に入ればオーストラリアでのキャリアをさらに長期へと伸ばしたいと希望する医師にとっても有効なルートである。短期研修で得た臨床実績や推薦が評価され、所属先から「この医師を残したい」と判断されるような医師には、Specialist Pathwayを経て病院が新たな雇用やスポンサーシップを提供するケースもあり得る。

ただ上記のような方法でオーストラリアでのキャリア延長をしない場合、このルートは定義上「臨時登録」(limited registration)として扱われるため、最長2年の研修期間が終了した時点で登録は自動的に失効し、医師は自国へ帰国することが義務付けられている。原則は「学びと交流」を目的とした制度だということである。もっとも斜めから見ると、オーストラリア医療にとってこの制度は、外国の専門医を低賃金で「下っ端」として雇い、将来は本国に帰ることを約束させることで、本国の医療者の利権を侵害することなく労働力を確保できるよう作られた、便利な仕組みだとも言える。

Short-Term Training Pathwayの構造を政治哲学的に分析すれば、「裁量の管理された参加」という概念が浮かび上がる。国家は「臨床に触れることは許すが、最終判断者にはしない」という明示的な区別を制度に埋め込んでいる。「委任された裁量」ではなく「期限付きで貸与された裁量」——これは例外決定権の国内独占を維持しながら労働力だけを外部調達する保護主義的設計である。雇用主と「ボス」となる医師の確保が絶対条件であるという点は、「裁量は信任である」という命題を具体的に実装している。裁量の貸与は組織(雇用主)と個人(上司医師)の二重の保証人によって担保され、同時に裁量の範囲と期限を明確にする装置として機能する。

「帰国義務は解除可能な仮初め」という逆説もここに存在する。帰国が「義務」である一方で、パフォーマンスに応じた条件付き解除が現実には起きている。ルールは存在するが例外は可能であり、その例外を誰が決定するかは——「所属先がこの医師を残したいと判断する」という組織的裁量として実装されている。「裁量とはルールを破ることを事後的に説明できる義務である」という定義がここでも生きている。

Short-Term Training Pathwayを経て帰国した医師が日本医療に持ち帰る最大の資産は、知識や経験だけではなく「委任された裁量の体験」である。日本では黙認された裁量が常態であるため、「なぜそう決めたのかを記録し、説明し、批評を受ける」という実践そのものが制度化されていない。このルートを経た医師は帰国後に日本医療の「黙認された裁量」構造の不可視性を認識できる位置に立つ。これは個人のキャリア資産ではなく、医療制度批判の基盤となる実践知である。

五 Specialist Pathway——主権的審査としての同等性

日本で専門医資格を持つ医師は、Specialist Pathwayに挑戦することができる。簡単に言えば「日本の専門医がオーストラリアでもすぐに専門医として働けるルート」である。オーストラリアにおける各専門団体(RACGP、RACP、RACSなど)が実施するcomparability assessment(同等性審査)を経て、結果はNot comparable(不合格)、Partially comparable(部分的合格・条件付き)、Substantially comparable(合格・専門医として臨床開始可能かつ永住権取得可能)の三段階に振り分けられる。

審査では訓練内容、勤務年数、症例経験、継続教育(CPD)などが詳細に評価される。提出書類に加えて面接での質疑があり、専門知識に加えてオーストラリアの医療制度、倫理、文化的理解も確認される。この三層の評価は単なる医学的スキルの査定ではない。「訓練内容、勤務年数、症例経験、継続教育」に加え「オーストラリアの医療制度、倫理、文化的理解」が評価されるという設計は、「理由を構造化できる能力」「第三者に説明し批評を受け入れる耐性」を国際的・制度的に実装したものである。

「単に資格を持っているだけでは同等性が認められない」という点は極めて重要である。日本の専門医資格は「ローカル資格資本」であり、それがオーストラリアで通用するためには「日本という主権国家が委任した裁量」を「オーストラリアという別の主権国家が再委任する」プロセスを経る必要がある。日本とオーストラリアでは研修構造や専門医制度が大きく異なるため、単に資格を持っているだけでは同等性が認められないことが多い。

ここに「審査で高く評価されるためには、判定に影響を及ぼすような重鎮医師との親交が必要」となる理由がある。制度は形式的には客観的だが、実質的には「信頼のネットワーク」に依存している。「この人物は、オーストラリアの医療共同体において例外を決定できる資質を持つと、既存の権威者が保証する」——これが「同等性」の本質である。これは機能不全ではなく設計通りの動作である。例外決定者の資格制度は教育機関ではなく政治的信任制度であり、裁量は能力ではなく信任として配分される。そしてその信任は、制度的評価と社会的関係の両面から構成される。

逆に言うと、こうした十分な実績と人脈がない限り、このルートでの成功はないと言える。考えてみればこれは当然で、オーストラリアの医療界にとっては、みすみす彼らの将来のライバルとなり利権を侵害してくる可能性のある外国人専門医を、簡単に招き入れるメリットはないからである。国家の主権的利益と既存医師集団の市場利益が、同一の制度設計によって同時に達成される。

六 三経路の統一的構造——裁量委任の三類型

三つの登録経路の全体像を見渡すと、一貫した統治論理が浮かび上がる。Standard Pathwayは「ゼロから裁量を委任する」プロセスであり、最も時間がかかるが最も完全な裁量を得られる。Short-Term Training Pathwayは「裁量を貸与するが返却を前提とする」プロセスであり、期限付きでフルライセンス取得は原則不可という制限は「完全な例外決定権は与えない」という明示的な設計である。Specialist Pathwayは「他国で得た裁量を承認する」プロセスであり、日本という別の主権国家が既に委任した裁量を、オーストラリアが再委任するかどうかを主権的に審査する装置である。

この三つの経路の存在そのものが、オーストラリアの医療制度が「裁量の管理」を極めて重視していることを示している。同じ医療行為でも、誰が行うか、どの条件で行うか、誰が監督するか、どのように記録されるか、によって制度的位置づけが変わる。Limited Registrationは限定的裁量、General Registrationは完全な裁量、Specialist Registrationは専門領域における高度な裁量、という形で裁量の範囲が資格によって定義されている。これは「AI時代の医師とは例外を引き受ける人である」という命題を、制度として先行実装したものである。

AMC Part 2試験とWBAの対比は、「禁止された裁量」「黙認された裁量」「委任された裁量」という三類型を実際の制度として可視化している。AMC Part 2試験は説明能力、倫理的判断、文化的理解を「試験場」という人工的環境で測定しようとする試みであり、「理由を言語化する能力」を事前にテストする選抜装置である。WBAは実地臨床を通じて、患者対応、チーム連携、臨床判断、記録能力を「実際の職場」で評価する仕組みであり、「裁量を行使する現場」で説明責任を果たせるかを検証する監査装置である。

インフォームド・コンセントやSDM(shared decision making)が「徹底して求められる」という点も、表面的には患者の権利の話に見えるが、実は裁量の正当化プロセスの話である。医師が例外を決定するとき、その決定は「患者と共有された意思決定」として記録され、検証されなければならない。これは「黙認された裁量」を許さない仕組みである。決定は常に可視化され、理由が記録され、責任の所在が明確になる。

七 裁量の政治哲学——誰が例外を決めるのか

裁量の三類型と医療制度

医療における裁量には三つの類型がある。第一に禁止された裁量は、規則上「例外は存在しない」とされ、ガイドライン至上主義・プロトコル遵守が評価指標となり、判断は消えるが責任は消えない。事故時には「想定外」「手順は守った」という言説が生まれ、医師は判断主体ではなく手順実行者となる。日本医療は表向きこれだが、現実には成立していない。第二に黙認された裁量は、規則違反だが事後に問題化されなければ許される裁量であり、ベテランの「さじ加減」、夜間・災害・人手不足の状況、記録の「調整」として現れる。成功すれば英雄、失敗すれば逸脱者となり、医師は沈黙を学習する存在となる。日本医局制度との親和性が非常に高く、200年崩れない理由の核心である。第三に委任された裁量は、例外を決める権利が制度上あらかじめ付与されている裁量であり、GP、裁判官、災害医療統括医、ICU責任医がこれに該当する。問われるのは結果ではなく理由であり、判断は可視化され記録され批評される。

GPという職業は単なる診療科ではなく医療制度の哲学を体現する職種である。GPは医療入口管理(Gatekeeper)、継続ケア提供、地域医療統合を担い、医学的には「不確実性管理専門職」として確定診断型の専門医とは異なる仮説管理型の役割を果たす。GPが高待遇になるのは医療コスト調整役、不必要検査の抑制者、予防医療推進者として国家財政の守護者だからである。GPという職業が確立された社会では、紹介するしない、待つか介入するか、公的資源を使うか使わないかを自分の名前で決め、問われるのは成功したかではなくなぜそうしたかである——これはまさに「委任された裁量」の体現である。日本ではこの裁量は医局・空気・慣行・暗黙知に分散され誰のものでもないが、オーストラリアでは個人に集約されている。

例外を決める権利の独占

国家はなぜ医師資格を独占するのかという問いには、単純で残酷な答えがある。医師は「暴力装置」だからである。医療行為は体への侵襲、自由の制限、強制介入を正当化し、これは平時の合法的暴力である。国家は暴力・税・裁判を独占し、医療はその中の身体への暴力に該当する。医師資格は暴力使用許可証であり、メスを入れる、薬を強制投与する、隔離するといった行為を市場に任せるとカオスになるため、国家が独占する。

政治哲学者カール・シュミットの定義「主権者とは、例外状態を決定する者である」を医療に当てはめると、通常時はAI・制度・ガイドライン、例外時は人間・国家・医師となる。国家が絶対に手放さないのは「例外を決める権利」である。AHPRAという登録制度は、この「例外を決める権利を、国家が誰に渡しているか」を可視化し管理する装置として機能している。

裁量を失った社会では「誰も決めない、全員がルールを守った、しかし患者は死んだ」という「責任なき正しさ」が起き、裁量を残しすぎた社会では「医師ごとに判断が違う、権力が固定化する、不透明な医療」という「恣意的医療」が起きる。正解は裁量を「権利」ではなく「危険な義務」として扱うことである。裁量とは、ルールを破る勇気ではなく、破った理由を一生背負う覚悟であり、だから誰にでも与えてはいけないが、誰にも与えないわけにもいかない。

八 日本医療との構造的対比

日本医師の国際競争力を研究ベースで評価すれば、強みは臨床技術(世界トップクラス)、忍耐力・労働適応性、チーム医療適応性にある。一方、弱点は英語運用能力(最大の障壁)、自己マーケティング能力、一般診療能力(GP的能力の教育が弱い)である。日本は専門細分化型の教育システムであり、総合評価としては臨床能力は極めて高いが制度適応性と国際移動性に課題を抱えている。

日本の医療制度は構造的に医師流出を抑制するように設計されている。第一に、日本の専門医制度は学会主導で病院ネットワークに依存し施設実績主義を採るため、キャリア資産が「組織内」に蓄積する。これは「ローカル資格資本」と呼ばれ、海外に出るとキャリアがリセットされる。第二に、全国一律の診療報酬による収入均質化は高収入インセンティブを弱め、「低分散報酬構造」として海外挑戦の期待値を下げる。第三に、医局ネットワークが人事配置・研究機会・教育機会を独占しキャリアを共同体依存にしている。これらは医師を「準終身雇用型専門職」として組織内に留める装置として機能している。

日本医局制度が200年近く崩壊しない理由は、医局が「教育機関」ではなく「人材分配アルゴリズム」だからである。医局の原型は江戸期の藩医制度にあり、医療教育・人材配置・忠誠関係・身分秩序が一体化していた。現代の医局は、地方医師派遣・研究者育成・病院間調整・キャリア保障を担う「医療版サプライチェーン」として、医師・大学・地方病院が循環依存する相互依存構造を形成している。市場配置にすると地方医療が崩壊し専門医偏在が増大するため、医局は非効率だが社会安定装置として存続している。

日本はオーストラリアとの対比において何が最も異なるか。日本では誰に例外決定権を渡すつもりなのかという問いに対し、現状では「誰にも渡すつもりがないが、実際には最も立場の弱い医師に押し付けている」という答えになる。制度上の建前はガイドライン遵守・多職種連携・チーム医療・病院としての判断であり、個人名を消す構造である。現場での実態は、例外が必要な場面(夜間・救急、災害、ベッド逼迫、家族対応)では当直医・若手・非正規・地方医が決め、責任だけが末端に沈殿する。国家が明示しない理由は、例外決定者を明示すると国家が「失敗を許容した」ことになるからであり、日本の統治思想は失敗は個人の過失・成功は制度の成果とする。

九 AI時代の医師——例外を引き受ける人

AIと裁量の再設計

AI時代に国境を超える医師資格がどう変わるかについては、革命的な変化が進行中である。従来、医師資格は知識と技能の証明だったが、AI時代には判断責任の所在へと変化する。AI遠隔診療が普及すると診断はクラウドで行われ、医師は責任主体となる。医師の業務を分解すると、情報収集・診断推論・治療選択・説明と同意形成・責任の引き受けという五つがあり、このうち最初の三つはほぼAI優位となる。しかし同意形成と法的・倫理的責任はAIが代替できない核心であり、未来の医師は診断者ではなく判断承認者(Approver)になる。

AIが来た瞬間、日本では「誰も決めていなかった」ことが露呈するが、豪州では「決める人は人間だ」と言い切れる。オーストラリアの医師制度は、AI補助診断・ガイドライン・リスクマネジメントと正面衝突している制度である。なぜなら、最終判断者が誰かを制度があらかじめ名指ししているからである。WBAのような実地評価は将来的に「AIの提案をどう解釈したか」「なぜAIの提案を採用した・しなかったか」「代替案をどう検討したか」を評価する仕組みへと拡張できる。これは「AI補助裁量の監査設計」の実装例となる。

Short-Term Training Pathwayの「期限付き・監督下の限定裁量主体」という構造は、将来のAI補助診断環境における「人間医師一般」の制度的先型(prototype)として読める。AIが常設の診断主体となり、人間医師が期限付き・更新制の「例外承認者」として登録される制度が来るとすれば、現行のlimited registrationの論理構造がそのまま転用される。オーストラリアの制度はAI以前にすでに、その未来の論理を実装している。

裁量の再設計——技術制度ではなく政治制度

AI導入で起きる不可逆変化は、判断ログが残る・代替案が提示される・「なぜ無視したか」が問われるという形で現れ、黙認された裁量が死ぬ。生き残るのは禁止された裁量(プロトコル)と委任された裁量(名指し)である。再設計の核心は裁量の分解であり、判断生成はAI・判断選択は人間・判断引受は資格保有者となる。これは技術制度ではなく政治制度である。

医師免許が「身分」から「契約」へ変わる可能性も現実味を帯びている。現行医師免許は終身・全国一律・技能前提・身分化であり裁量の所在が曖昧である。契約化した医師資格とは、医師とは国家から「例外決定を委ねられた個人」であり、全員が例外を決めるわけではなく、決める人は理由を出し続ける義務を負う、という形である。期間制・地域・役割限定・AI補助義務・判断記録義務・再任審査ありという形での契約医師制度は、公共財としての医師と自由職としての医師の中間形態となる。

十 「還流」という視点——制度から個人へ、個人から制度へ

海外経験は離脱ではなく還流であるとする考え方の根底には何があるか。AHPRA登録を経た臨床医の多くは帰国後に教育分野・経営分野・政策分野で活躍しており、国際的な視点から日本の医療の改善に寄与している。具体的には、患者中心の共有意思決定の実践、紹介状における明確な目的記述の方法、プライマリ・ケアにおけるゲートキーピング機能の重要性、多職種連携を支えるチーム基盤の構築、診療情報提供の標準化、医療安全を確保するための記録文化、混合診療議論に資する実証データなど広範なテーマを学ぶことができる。

これらは医療現場で機能する仕組みと作法であり、それらを自院の運用改善・教育・学術発表・地域連携の改善に結びつける取り組みが求められる。海外経験は単に個人のキャリア形成を越えて、日本の医療の質を向上させる上で価値ある公共的資産になり得る。AHPRA登録を経験した医師が日本医療に持ち帰るのは知識や技術だけでなく、「委任された裁量がどういうものか」「例外を決める者が理由を言語化するとはどういうことか」「説明責任が制度として実装されると何が変わるか」という体験的知識である。これは日本医療が最も欠いているものである。

Brain Drainの倫理的問題をBrain Circulationの積極的価値に転換するというフレーミングは理解できるが、より精密には「帰国した医師が持ち帰るのは、日本の『黙認された裁量』構造の不可視性を認識できる認識論的位置である」と言うべきである。日本医療の遅れは例外を引き受ける主体を制度として決めてこなかったことに尽きる。Short-Term Training Pathwayが期限付き貸与であるという制約は個人のキャリア上の限界を意味するが、それを経験した医師が日本医療の制度設計に関与するとき、その限界の経験こそが批判的視点の源泉となる。

結論 医師登録制度の本質——「例外を決める権利を、誰に渡すか」

三つの登録経路が示す統治論理は一貫している。Standard Pathwayは裁量の完全委任への道、Short-Term Training Pathwayは裁量の管理された参加、Specialist Pathwayは他国由来の裁量の主権的審査という構造は、「国家が例外決定権を誰に、どの条件で、どの範囲で与えるか」という統治設計の三類型を体現している。そしてその三類型は裁量に対する国家の態度を映す鏡でもある。全面開放・条件付き貸与・主権的審査、この三つの態度は、AI時代に国家が医療判断をどう管理するかという問いに対する制度的回答の候補でもある。

AHPRAという医師制度の本質は医師の話ではなく、「例外を決める権利を、国家が誰に渡しているか」の話である。英語試験から始まり、Limited Registrationを経て、General Registrationに至り、Specialist Registrationに到達するまでの全プロセスは、裁量の段階的・明示的・検証可能な委任として設計されている。この設計を貫く問いは一つである——この人物は、例外を決めたとき、なぜそう決めたのかを説明できるか。

医師登録制度とは単なる資格認定システムではなく、「国家が医療における最終判断者をどう指名するか」という統治機構の一部である。そして、その指名プロセスは技能の証明ではなく説明責任の実証によって行われる。AMC試験やWBAが評価しているのは、「この人物は患者に説明できるか」「この人物は同僚と議論できるか」「この人物は自分の判断を記録に残せるか」「この人物は批評に応答できるか」という、まさに「裁量を持つ者に必要な資質」そのものである。

AI時代の医師とは「診る人」ではなく「例外を引き受ける人」である。そしてオーストラリアの制度は、その未来をすでに制度として実装している。国家が医療における最終判断者を誰にするのか、その判断者をどう選抜し、どう監査し、どう責任を負わせるのかという問いは、単なる医師個人のキャリアの話ではなく、民主国家が例外状態をどう管理するかという政治哲学の問題である。




初版

医療における裁量と例外決定の政治哲学-オーストラリアの医師制度

オーストラリアで医師として働くための道筋は、表面的には医師登録の手続きや英語試験の攻略法を語っているように見えるが、実際にはもっと深い構造的な問題を内包している。提起されているのは、単なるキャリア指南ではなく、医師という職業の本質、国家による資格管理、そして例外を決定する権利をめぐる政治的な問題である。

AHPRAという医療従事者登録機関の役割、複数の登録経路(Standard pathway、Short-Term Training pathway、Specialist pathway)の存在、そして何より英語試験が持つ実質的な障壁としての機能は、実務的な観点から整理することができる。特にOETとIELTSの性質の違い――OETが医療現場での実務的コミュニケーション能力を測るのに対し、IELTSは抽象的思考と論理構築を要求する――という点は、単なる受験テクニックの話ではなく、何が「医療に必要な英語力」として定義されているかという制度設計の問題に触れている。

制度突破型キャリアモデルとしての構造は明確である。英語試験という資格ボトルネックを突破し、AHPRAという制度的承認を得て、専門資格(FRACGP)を取得し、最終的に資本独立(開業)に至るという構造は、市場競争ではなく制度的関門の通過によってキャリアが決定される「Credential Escalation Model」そのものである。これは高度専門職の越境移動において典型的なパターンであり、技能ではなく資格が移動の通貨となり、国家制度への再適応が必須となる。このモデルの強みは再現性と安全性、社会信用の最大化にあるが、同時に時間コストの極大化、初期リスクの高さ、制度変更への脆弱性という弱点も抱えている。

日本医師が海外へ出る理由は、一般的には労働環境因子(長時間労働、専門医取得構造の硬直性)、社会制度因子(医療訴訟文化、収入上限構造)、キャリア自律因子(所属依存型から個人資格型への志向)に整理される。しかし、日本からの医師流出が限定的である最大の要因は英語資格障壁であり、これは実質的に「見えない国家資格」として機能している。

実は、日本の医療制度は構造的に医師流出を抑制するように設計されている。第一に、日本の専門医制度は学会主導で病院ネットワークに依存し、施設実績主義を採るため、キャリア資産が「組織内」に蓄積する。これは「ローカル資格資本」と呼ばれ、海外に出るとキャリアがリセットされる。第二に、全国一律の診療報酬による収入均質化は、高収入インセンティブを弱め、「低分散報酬構造」として海外挑戦の期待値を下げる。第三に、医局ネットワークが人事配置、研究機会、教育機会を独占し、キャリアを共同体依存にしている。これらは、医師を「準終身雇用型専門職」として組織内に留める装置として機能している。

GPという職業は、単なる診療科ではなく医療制度の哲学を体現する職種である。GPは医療入口管理(Gatekeeper)、継続ケア提供、地域医療統合を担い、医学的には「不確実性管理専門職」として、確定診断型の専門医とは異なる仮説管理型の役割を果たす。GPが高待遇になるのは、医療コスト調整役、不必要検査の抑制者、予防医療推進者として、国家財政の守護者だからである。GPが成立する社会条件には、医療費抑制政策、患者の「主治医文化」、そして委任された裁量の存在がある。

OETが医療安全に与える影響については、研究が増えている。国際研究では医療過誤の約30~40%がコミュニケーション由来であり、OETはAuthentic Clinical Communication Assessment、つまり実務模倣評価として、情報要約能力、文脈判断能力、専門間連携能力を測定する。IELTSが言語構造能力を測るのに対し、OETは医療意思伝達能力を測る。この差異は、紹介ミスや誤解による投薬ミスを減らす可能性と直結している。

日本医師の国際競争力を研究ベースで評価すれば、強みは臨床技術(世界トップクラス)、忍耐力・労働適応性、チーム医療適応性にある。一方、弱点は英語運用能力(最大の障壁)、自己マーケティング能力、一般診療能力(GP的能力の教育が弱い)である。日本は専門細分化型の教育システムであり、総合評価としては臨床能力は極めて高いが、制度適応性と国際移動性に課題を抱えている。

「医師移民」は誰が得をするかという問いには、冷酷な答えがある。受け入れ国は教育コストを輸出国が負担する形で医療人材を獲得し、医師不足地域を充填できる。グローバル医療資本も利益を得る。個人医師は労働環境改善、収入向上、キャリア自律性を得るが、条件次第である。輸出国はほぼ確実に損失を被るが、海外送金や国際医療ネットワーク形成という副次的利益もある。ただし、輸出国が「裁量を嫌う国家」である場合、医師移民は制度からの脱出であり、倫理的非難は成立しにくい。この問題は「Brain Drain(優秀人材流出)」対「Brain Circulation(知識逆輸入)」という倫理学的論争を呼び起こしており、日本は中間型に位置している。

日本医局制度が200年近く崩壊しない理由は、医局が「教育機関」ではなく「人材分配アルゴリズム」だからである。医局の原型は江戸期の藩医制度にあり、医療教育、人材配置、忠誠関係、身分秩序が一体化していた。現代の医局は、地方医師派遣、研究者育成、病院間調整、キャリア保障を担う「医療版サプライチェーン」として、医師・大学・地方病院が循環依存する相互依存構造を形成している。市場配置にすると地方医療が崩壊し専門医偏在が増大するため、医局は非効率だが社会安定装置として存続している。医局は崩壊せず、強制人事から推薦人事へ、医局支配からゆるやかなネットワークへと形を変えて進化している。

GP制度が社会階級に与える影響も深い。GP制度では富裕層も低所得層もまずGPを受診するため、早期診断、予防医療、慢性疾患管理を通じて健康格差が縮小する傾向がある。ただし、富裕層がPrivate specialistやConcierge medicineへ流れる現象もあり、GP制度は「階級間健康格差を緩和するが完全には消せない」。日本は自由受診制度であり、医療アクセスは平等だが医療利用は階級依存という特徴を持つ。

医師移民と医療格差の倫理問題における最大の論点は、「誰の教育投資を誰が使うのか」である。途上国医師が先進国へ移動すると教育費を払った国は損失を被る。これには自由移動モデル(医師は個人であり移動は権利)、社会責任モデル(医師は公共財で出身国への義務がある)、相互補償モデル(受け入れ国が教育費を補償)という三つの倫理モデルが存在するが、日本は医師輸出国ではなく、教育費が国家負担であるため、倫理議論が表面化しにくい。

AI時代に国境を超える医師資格がどう変わるかについては、革命的な変化が進行中である。従来、医師資格は知識と技能の証明だったが、AI時代には判断責任の所在へと変化する。AI遠隔診療が普及すると、診断はクラウドで行われ、医師は責任主体となる。未来の資格モデルとしては、AI運用資格、臨床責任資格、地域医療資格という多層資格モデルが予測され、航空業界のように国際標準資格へ移行する可能性がある。

「英語試験」が本当に能力測定なのかという社会選抜装置論も重要である。試験は能力測定と社会選抜の二重機能を持つ。英語試験が選抜装置になるのは、学習コストが高く、文化資本(留学経験、教育環境)と経済資本(受験費用、教材費)に依存するからである。OETは臨床実務文化に適応した人材を、IELTSは抽象思考文化に適応した人材を選抜する。社会学的には「試験は能力を測る装置ではなく、能力の定義を決める装置」である。

医師という職業はAI時代に消滅するかという問いには、慎重な答えが必要である。医師の業務を分解すると、情報収集、診断推論、治療選択、説明と同意形成、責任の引き受けという五つがあり、このうち最初の三つはほぼAI優位となる。しかし、同意形成と法的・倫理的責任はAIが代替できない核心であり、未来の医師は診断者ではなく判断承認者(Approver)になる。データ読み専門医やガイドライン暗記型医師は消えるが、医師という職業そのものは消えない。

国家はなぜ医師資格を独占するのかという問いには、単純で残酷な答えがある。医師は「暴力装置」だからである。医療行為は体への侵襲、自由の制限、強制介入を正当化し、これは平時の合法的暴力である。国家は暴力、税、裁判を独占し、医療はその中の身体への暴力に該当する。医師資格は暴力使用許可証であり、メスを入れる、薬を強制投与する、隔離するといった行為を市場に任せるとカオスになるため、国家が独占する。

医療は市場に任せるべきかという問いは、歴史的に何度も検証されている。完全市場化(米国、一部途上国)の結果は医療費爆騰、アクセス格差、無保険層拡大であり、完全国家統制(旧ソ連、一部社会主義国)の結果は技術停滞、待機リスト、闇医療である。医療は市場と国家のハイブリッドでしか成立せず、北欧、豪州、日本が成功モデルとされる。

医師は公共財か自由職業かという問いへの答えは、「条件付き公共財」である。医師には公費教育、国家資格、社会的信頼という公共財的側面と、職業選択自由、開業自由、専門選択自由という自由職業的側面がある。この緊張関係が診療報酬、勤務義務、倫理規定といった制度を生み出している。

医療教育は国家戦略か個人投資かという問いには、両方であるという答えしかない。国家側の論理では医師はインフラであり、医師不足は国家リスクであり、教育は長期投資である。個人側の論理では人生選択、機会費用、国際移動が問題となる。AI時代では、国家は医師数より責任主体数を、個人は資格の国際可搬性を焦点とするようになる。

AI時代の医師の本質を一言で言えば、知識労働者でも技能者でもなく、社会が「この人に任せる」と決めた最終判断者である。だから国家が資格を握り、英語試験で選抜し、責任を負わせる。もしAIが医師より正確になったとき、それでも人は「人間の医師」に診てもらいたいのかという問いに、どう答えるかで未来の医療制度は真逆になる。

AIが責任主体になる日は来るかという問いには、「完全な責任主体」としてのAIは近い将来は来ないが、「限定的・擬似的責任主体」としてはすでに始まっているという答えになる。責任主体とは法的に、違法性を認識でき、結果を予見でき、非難可能性がある存在であり、AIは「理解していた」かを証明できず、意図を持たず、罰を受けても意味がないため、責任の引き受け先にならない。現実にはすでにAI診断が原因の誤診が起きており、責任は開発者、導入機関、最終承認医師に分散されている。社会はすでに責任を「人から組織へ、組織からシステムへ」と薄めている。今後あり得る到達点は、AIが「判断主体」で人間が「監督責任者」という擬似責任主体モデルであり、航空機のオートパイロットと同じ構造である。AIは倫理的責任主体にはなれないが、制度的責任装置にはなる。

医師免許は「身分」から「契約」へ変わるかという問いには、かなり現実味がある。現在の医師免許は終身、国家承認、剥奪が極めて稀という身分資格である。これが揺らいでいる理由は三つある。第一に、AIが診断と治療提案を担うと医師の価値は責任範囲に集約される。第二に、初期診断AI、専門判断医師、遠隔責任医師という分業化が進み、役割ごとに契約が必要になる。第三に、リスク管理社会において国家は誰がどこまでいつ責任を持つかを契約で明示したい。未来の免許モデルとしては、診断承認資格、処方責任資格、AI監督資格といったモジュール型医師資格に更新制・契約制が加わることが予測される。ただし、国家は医師を完全に切り捨てたくなく、非常時動員したいため、身分性を一部残す。医師免許は身分と契約のハイブリッドになる。

国家は医療判断をAIに委ねられるかという問いには、委ねたいが委ねきれないという答えになる。国家がAIに委ねたい理由は、医師不足、医療費抑制、標準化であり、AIは安く、速く、文句を言わない。それでも委ねきれない理由は、政治責任(医療事故が起きたとき「AIがやった」は通らない)、国民感情(多くの人は死に際をAIに決められたくない)、緊急時の例外(災害医療、戦争、パンデミックではAIは責任を取れない)である。国家が選ぶ現実解は、AIが通常医療の判断を行い、人間が例外・最終判断を行うという二層判断モデルである。国家が絶対に手放さないのは「例外を決める権利」である。

これらを統合すると、未来の医療判断の構造は、AIが最適解を提示し、医師が社会的に承認し、国家が責任の最終引受人となる。医師の本質的役割は診断する人でも知識を持つ人でもなく、AIの判断に「YES/NO」を言う権限を持つ人へと再定義される。人間が必要な理由は、社会が「誰の判断だったか」を必要とするからである。

「例外を決める権利」とは、ルールを一時停止してもよいと判断する権限であり、ガイドラインから外れる、最適解を無視する、手続きを飛ばす、「今回は仕方ない」と言うという決断を正当化できる権限である。AIは本質的にルールを最適化する存在だが、現実の医療は想定外、例外、逸脱、不完全情報の連続であり、ここで必要になるのが例外を許す判断である。AIはルール上は不可能、確率が低い、責任が定義できないと答えるが、例外を作れないのではなく、例外を作った責任を引き受けられない。政治哲学(カール・シュミット)の定義「主権者とは、例外状態を決定する者である」を医療に当てはめると、通常時はAI・制度・ガイドライン、例外時は人間・国家・医師となる。

裁量とは何かを再定義すれば、自由ではなく、ルールを破ることを事後的に説明できる義務である。勝手に決めていい権利でも、責任を免除される特権でもなく、後から問い詰められる前提での逸脱許可である。

例外を誰が濫用するのかは構造的に予測可能である。濫用する主体は、評価されない者(閉じた空間の権力者、単独判断、第三者レビューなし、文書化なし)、過剰に善意な者(「患者のため」「今だけは仕方ない」という自己正当化型裁量、ヒロイズム)、組織に守られすぎた者(処分されない、責任を取らなくていい、免責が裁量を暴走させる)である。裁量を濫用するのは能力が低い者ではなく、説明責任を免除された者である。

医師は例外をどこまで許されるのかという問いには、医師は結果ではなく理由で裁かれるという原則がある。許される例外の条件は、代替手段が存在しない(標準治療が無効、時間がない)、逸脱理由が共有可能(他医師が理解できる、後から再現できる論理)、判断が記録されている(カルテ、カンファレンス記録)という三つが揃うときのみである。許されない例外は、面倒だから、忙しいから、いつもやっているからであり、これらは裁量ではなく怠慢である。重要な逆説は、例外は成功したから許される、失敗したから罰せられるのではなく、説明できたかどうかで裁かれる。

「例外を決める医師」はどう選抜されるべきかという問いには、能力基準だけでは足りないという答えになる。経験年数、専門資格、技術力だけでは不十分であり、本当に必要な資質は、判断の言語化能力(自分の直感を言葉にできる、他人に説明できる)、反証耐性(批判を受けられる、後出しで逃げない)、孤独耐性(誰にも支持されなくても決めるが、独裁にならない)である。選抜方法としては、単一免許ではなく役割資格(通常診療医、例外判断医Senior、災害・緊急裁量医)と更新制・レビュー制(定期的な事後評価、裁量判断の検証)が現実的である。AI時代では、AIが標準判断をすべて担うとき、人間医師の価値は例外処理能力だけに集約される。

裁量を失った社会では誰も決めない、全員がルールを守った、しかし患者は死んだという「責任なき正しさ」が起き、裁量を残しすぎた社会では医師ごとに判断が違う、権力が固定化する、不透明な医療という「恣意的医療」が起きる。正解は裁量を「権利」ではなく「危険な義務」として扱うことである。裁量とは、ルールを破る勇気ではなく、破った理由を一生背負う覚悟であり、だから誰にでも与えてはいけないが、誰にも与えないわけにもいかない。

裁量には三つの類型がある。第一に禁止された裁量は、規則上「例外は存在しない」とされ、ガイドライン至上主義、プロトコル遵守が評価指標となり、判断は消えるが責任は消えない。事故時には「想定外」「手順は守った」という言説が生まれ、医師は判断主体ではなく手順実行者となる。日本医療は表向きこれだが、現実には成立していない。第二に黙認された裁量は、規則違反だが事後に問題化されなければ許される裁量であり、ベテランの「さじ加減」、夜間・災害・人手不足、記録の「調整」として現れる。成功すれば英雄、失敗すれば逸脱者となり、医師は技能で生き残る職人、沈黙を学習する存在となる。日本医局制度との親和性が非常に高く、200年崩れない理由の核心である。第三に委任された裁量は、例外を決める権利が制度上あらかじめ付与されている裁量であり、GP、裁判官、災害医療統括医、ICU責任医がこれに該当する。問われるのは結果ではなく理由であり、判断は可視化され、記録され、批評される。医師は技能者ではなく政治的判断主体となる。

例外決定者の資格制度について言えば、例外を決めるとは価値衝突を引き受けることであり、安全対迅速、個別最適対全体最適、今救う対将来守るという選択は技術問題ではない。必要な資格の正体は、高偏差値、手技の巧さ、症例数ではなく、理由を構造化できる能力、代替案を言語化できる能力、第三者に説明し批評を受け入れる耐性、つまり説明責任耐性である。資格制度の具体像としては、基本医師資格(全員)、裁量補助資格(AI併用可)、例外決定資格(更新制)という構成に、実例ベースの判断記録、ピアレビュー(結果ではなく理由)、失敗事例の開示義務という更新要件を組み合わせる。これは教育ではなく政治的信任制度である。

英語試験は「入口」ではなく「フィルター」であり、OETは医療現場で「理由を伝える能力」の測定、つまり「私はこの患者を、こう判断し、この専門家に、こういう理由で委ねる」という裁量の言語化テストである。OETは最初から"You can decide --- but can you explain why?"と聞いている。GPという職業は、紹介するしない、待つ介入する、公的資源を使う使わないを自分の名前で決め、問われるのは成功したかではなくなぜそうしたかであり、これは「委任された裁量」を体現している。日本ではこの裁量は医局、空気、慣行、暗黙知に分散され誰のものでもないが、オーストラリアでは個人に集約されている。

AHPRAという装置は、医師を守ることではなく誰が例外を決めていいかを可視化することをやっており、英語能力を測り、判断履歴を追え、州を越えて資格が通用し、逆に剥奪も一元化される。これは「例外決定者の資格制度」そのものである。日本医療との比較で矛盾が一気に噴出する。日本では医師免許は身分、裁量は黙認、例外は語られない、失敗は個人化、成功は制度化される。オーストラリアでは医師資格は契約、裁量は委任、例外は記録、失敗は理由で裁かれる、成功も理由で検証される。この対比が、「裁量とは何か」「国家は誰に判断を任せているのか」「AIが入ったら、この構造はどう壊れるのか」という問いへ押し出す。

オーストラリアの医師制度は、AI補助診断、ガイドライン、リスクマネジメントと正面衝突している制度である。なぜなら、最終判断者が誰かを、あらかじめ制度が名指ししているからである。AIが来た瞬間、日本では「誰も決めていなかった」ことが露呈するが、豪州では「決める人は人間だ」と言い切れる。オーストラリア医師制度の本質は、医師の話ではなく、「例外を決める権利を、国家が誰に渡しているか」の話である。だからここに到達した。偶然ではなく、構造的必然である。

日本医療は、誰に例外決定権を渡すつもりなのかという問いには、現状では誰にも渡すつもりがないが、実際には最も立場の弱い医師に押し付けているという答えになる。制度上の建前はガイドライン遵守、多職種連携、チーム医療、病院としての判断であり、個人名を消す構造である。現場での実態は、例外が必要な場面(夜間・救急、災害、ベッド逼迫、家族対応)では当直医、若手、非正規、地方医が決め、責任だけが末端に沈殿する。国家が明示しない理由は、例外決定者を明示すると国家が「失敗を許容した」ことになるからであり、日本の統治思想は失敗は個人の過失、成功は制度の成果とする。例外を制度化することは国家が不完全性を認めることであり、それを避けている。

AI時代の「委任された裁量」をどう再設計するかという問いには、AIは裁量を奪う存在ではなく裁量を名指しする存在だという前提がある。AI導入で起きる不可逆変化は、判断ログが残る、代替案が提示される、「なぜ無視したか」が問われるという形で現れ、黙認された裁量が死ぬ。生き残るのは禁止された裁量(プロトコル)と委任された裁量(名指し)である。再設計の核心は裁量の分解であり、判断生成はAI、判断選択は人間、判断引受は資格保有者となる。制度案としては、基本医師資格(診療可)、裁量行使資格(AI補助前提)、例外決定資格(限定数・更新制)という構成に、人数制限(病床数比例)、地域割当、判断ログ公開(匿名可)という特徴を持たせる。これは技術制度ではなく政治制度である。

医師資格を「例外決定契約」として再定義できるかという問いには、できるが痛みを伴うという答えになる。現行医師免許は終身、全国一律、技能前提、身分化であり、裁量の所在が曖昧である。契約化した医師資格とは、医師とは国家から「例外決定を委ねられた個人」であり、全員が例外を決めるわけではなく、決める人は理由を出し続ける義務を負う。契約医師制度の骨格は、期間制(5年など)、地域・役割限定、AI補助義務、判断記録義務、再任審査ありという形で、これは公共財としての医師と自由職としての医師の中間形態である。

これらを一文で束ねれば、AI時代の医師とは「診る人」ではなく「例外を引き受ける人」であり、日本医療の遅れは例外を引き受ける主体を制度として決めてこなかったことに尽きる。

三つの登録経路は、実は裁量の段階的委任プロセスを表している。Standard Pathwayは裁量の完全委任への道であり、AMC試験とWBAという二つの評価方法は、異なる哲学で「例外決定者」を選抜しようとしている。Short-Term Training Pathwayは裁量の限定的・期限付き貸与であり、Specialist Pathwayは既得裁量の国際的承認プロセスである。この構造は、国家が医療における判断権限をどう配分するかという統治設計そのものを示している。

AMC Part 2試験とWBAの対比は、「禁止された裁量」「黙認された裁量」「委任された裁量」という三類型を、実際の制度として可視化している。AMC Part 2試験は、説明能力、倫理的判断、文化的理解を「試験場」という人工的環境で測定しようとする試みであり、これは「理由を言語化する能力」を事前にテストする選抜装置である。一方、WBAは実地臨床を通じて、患者対応、チーム連携、臨床判断、記録能力を「実際の職場」で評価する仕組みであり、これは「裁量を行使する現場」で説明責任を果たせるかを検証する監査装置である。

この二つの評価方法の違いは本質的である。AMC Part 2試験は「能力があるかどうか」を事前に判定しようとし、WBAは「能力を発揮しているかどうか」を事後に検証しようとする。前者は予測モデル、後者は実証モデルである。そして重要なのは、近年WBAが「救い」として位置づけられているという点である。これは単に試験が難しいという話ではない。AMC Part 2試験が要求する「英語での即時応答や模擬患者への説明、共感、論理展開」は、人工的な試験環境で裁量行使を演技する能力であり、これは実際の裁量行使能力とは別の能力である。WBAが実践的であるというのは、実際に裁量を行使し、その理由を記録し、批評を受け、改善するという、まさに「委任された裁量」の本質的プロセスを経験させるからである。

さらに注目すべきは、WBA実施病院が「以前は各州で1施設程度、地方やへき地に位置」していたという点である。これは偶然ではない。地方やへき地は、まさに「例外が常態化する場所」である。標準治療が通用しない、リソースが限られる、専門医がいない、患者背景が複雑、時間的余裕がない──こうした環境では、医師は常に例外判断を迫られる。WBAをこうした場所で実施することは、「例外を決める耐久力」を最も厳しく試す設計である。近年WBA実施施設が増えているのは、制度の有用性が認識されたという表面的な理由だけでなく、オーストラリアの医療システムが「地方医療の維持」という政策目標と「裁量を持つ医師の育成」という教育目標を統合したことを意味している。

Limited Registration(Area of Need)という制度も重要である。これは「裁量の段階的解放」を示している。AMC Part 1試験のみの合格者は、完全な裁量を持たないが、監督医の下で「限定的な裁量」を行使できる。これは「黙認された裁量」から「委任された裁量」への移行期間である。重要なのは、この段階でも「雇用の約束があることが前提」という条件があることである。これは、裁量を委任する前に、組織が「この人物に裁量を任せてもよいか」を事前に判断する必要があることを示している。裁量は技能ではなく信任だからである。

12カ月間の監督下勤務という要件も、単なる経験年数の問題ではない。これは「例外決定の実績を蓄積し、検証可能にする期間」である。WBA修了者がこの12カ月を免除されるのは、WBA自体が12カ月の臨床ローテーションとして構成されているからではなく、WBAのプロセスそのものが「裁量行使とその説明責任」を継続的に検証する仕組みだからである。つまり、WBAは時間の問題ではなく、質の問題として設計されている。

General Registrationが付与されると「独立して診療を行うことが可能」となり、「多くの医師はこの段階でオーストラリア永住権の申請資格を得る」という点は、医師資格と市民権の関係を示唆している。これは単なる制度的な連動ではない。「独立して診療を行う」とは、「例外を自己の名で決定できる」ことであり、これは国家が「この人物を最終判断者として承認した」ことを意味する。永住権の申請資格を得るということは、医療における最終判断者が社会の構成員として認められるということである。これは、医師が単なる技術者ではなく、社会の意思決定構造の一部として組み込まれることを示している。

インフォームド・コンセントやSDM(shared decision making)が「徹底して求められる」という点も、表面的には患者の権利の話に見えるが、実は裁量の正当化プロセスの話である。医師が例外を決定するとき、その決定は「患者と共有された意思決定」として記録され、検証されなければならない。これは「黙認された裁量」を許さない仕組みである。決定は常に可視化され、理由が記録され、責任の所在が明確になる。

三つの経路を比較すると、より深い構造が見えてくる。Standard Pathwayは「ゼロから裁量を委任する」プロセスであり、最も時間がかかるが最も完全な裁量を得られる。Short-Term Training Pathwayは「裁量を貸与するが返却を前提とする」プロセスであり、期限付きでフルライセンス取得は原則不可という制限は、「完全な例外決定権は与えない」という明示的な設計である。これは「臨床に触れる」ことは許すが、「最終判断者にはしない」という区別である。Specialist Pathwayは「他国で得た裁量を承認する」プロセスであり、「日本で専門医資格取得済み」という条件は、日本という別の主権国家が既に裁量を委任した人物であることを示している。しかし、それでも「オーストラリアの専門医制度と同等かどうか、研修や実績などを厳密に審査される」のは、裁量の承認は国家主権に属するものであり、他国の判断を自動的には受け入れないからである。

この三つの経路の存在そのものが、オーストラリアの医療制度が「裁量の管理」を極めて重視していることを示している。同じ医療行為でも、誰が行うか、どの条件で行うか、誰が監督するか、どのように記録されるか、によって制度的位置づけが変わる。これは「AI時代の医師とは『例外を引き受ける人』である」という定義を、制度として実装したものである。

日本との対比がより鮮明になる。日本では医師免許は終身であり、一度取得すれば裁量の範囲は基本的に変わらない。しかし実態としては、裁量は医局、病院、診療科、経験年数、暗黙の序列によって「黙認される」形で配分されている。誰がどこまで決めていいかは明文化されておらず、結果として責任の所在が曖昧になる。オーストラリアでは、裁量は段階的に、明示的に、検証可能な形で委任される。Limited Registrationは限定的裁量、General Registrationは完全な裁量、Specialist Registrationは専門領域における高度な裁量、という形で、裁量の範囲が資格によって定義されている。

WBAという制度の本質は、「裁量行使のリアルタイム監査」である。mini-CEX(mini-Clinical Evaluation Exercise)、case presentation、multi-source feedbackといった評価方法は、すべて「この医師は、実際の臨床判断において、なぜそう決めたのか、それを説明できるか、他者からの批評に応答できるか」を検証する装置である。これは「例外決定者の資格制度」において必要とされる「理由を構造化できる能力」「代替案を言語化できる能力」「第三者に説明し批評を受け入れる耐性」を、実地で評価する仕組みである。

AMC Part 2試験が「非常に難関」であり「複数回の受験を要する医師も少なくない」のは、この試験が測定しようとしているのが単なる医学知識や臨床技能ではないからである。試験が要求しているのは、模擬環境において「患者中心の診療姿勢」を演技し、「説明能力、倫理的判断、文化的理解」を短時間で示す能力である。これは一種の政治的パフォーマンス能力であり、実際の裁量行使能力とは別の次元である。だからこそ、臨床的には優れた医師でもこの試験に苦戦する。一方、WBAは演技ではなく実践を評価する。6カ月から12カ月という期間は、「一時的に良い振る舞いをする」ことを不可能にし、「継続的に裁量を適切に行使し、説明する」能力を検証する。

この制度設計から見えてくるのは、オーストラリアが医療における「例外決定者」をどう選抜しようとしているかという戦略である。第一の戦略は段階的委任であり、いきなり完全な裁量を与えるのではなく、Limited RegistrationからGeneral Registrationへと段階的に権限を拡大する。第二の戦略は複数経路の提供であり、AMC Part 2試験という演技型評価とWBAという実践型評価の両方を用意することで、異なるタイプの「例外決定者」を包摂する。第三の戦略は地理的配置との連動であり、地方やへき地でのWBA実施は、医師の育成と地方医療の維持を同時に達成する設計である。第四の戦略は移民政策との統合であり、General Registration取得が永住権申請資格と連動することで、「例外決定者として承認された者を社会構成員として受け入れる」という一貫した論理を構築している。

「AI時代の『委任された裁量』の再設計」という問いに対し、オーストラリアの制度は一つの回答を示している。それは、裁量を「資格の種類」として分類し、裁量の範囲を「登録の種類」として明示し、裁量の行使を「実地評価」として継続的に検証し、裁量の委任を「段階的プロセス」として管理するという方法である。これはAIが入る前の制度だが、AIが入った後も基本構造は維持できる。なぜなら、この制度が管理しているのは「医学知識」や「臨床技能」ではなく、「判断の引き受け主体」だからである。

AIが診断支援や治療提案を行うようになっても、最終的に「この判断で行く」と決定し、その理由を説明し、結果に責任を持つのは人間である。WBAのような実地評価は、「AIの提案をどう解釈したか」「なぜAIの提案を採用した/しなかったか」「代替案をどう検討したか」を評価する仕組みへと拡張できる。実際、これは「AI補助裁量の監査設計」の実装例である。監査対象は「AIが何を出したか」ではなく、「人間がAIの出力をどう判断したか」である。

日本がこの制度から学ぶべきは、技術的な手続きではなく、根本的な設計思想である。オーストラリアは「誰が例外を決めるか」を制度の中心に置き、その選抜、訓練、評価、監査を体系化している。日本は「誰もが一律に医師免許を持つ」という建前と、「実際には誰が決めているか曖昧」という実態の間で揺れている。この曖昧さは、平時には機能するかもしれないが、AI時代、災害時、パンデミック時、医療資源逼迫時には致命的な脆弱性になる。

医師登録制度とは単なる資格認定システムではなく、「国家が医療における最終判断者をどう指名するか」という統治機構の一部である。そして、その指名プロセスは、技能の証明ではなく、説明責任の実証によって行われる。AMC試験やWBAが評価しているのは、「この人物は、患者に説明できるか」「この人物は、同僚と議論できるか」「この人物は、自分の判断を記録に残せるか」「この人物は、批評に応答できるか」という、まさに「裁量を持つ者に必要な資質」そのものである。

オーストラリアの医師制度が最初の英語試験から始まり、裁量と例外と責任の理論に到達し、そしてその理論が実際の制度としてどう実装されているかを示している。これは偶然ではなく、構造的必然である。なぜなら、医師という職業の本質が、知識でも技能でもなく、「社会が信任した最終判断者」だからである。そして、その信任のプロセスこそが、AHPRA登録であり、Standard PathwayでありWBAであり、結局のところ「例外を決める権利を、誰に、どのように渡すか」という国家統治の核心問題なのである。

国家が医療における最終判断者を誰にするのか、その判断者をどう選抜し、どう監査し、どう責任を負わせるのかという問いは、単なる医師個人のキャリアの話ではなく、民主国家が例外状態をどう管理するかという政治哲学の問題である。

Grok-4.2 + ChatGPT/GPT-5.2 + Claude Sonnet 4.5

> My personal advice and preferences:
> Don't bother with advice about understanding 50-line code blocks.
> Advise how to make 10,000,000 line code base easier to understand.

Your advice is similar to going to a guy explaining home-improvement on TV and
showing how to build a shelf (or whatever) well, and telling him: "don't
bother with advice about building a shelf - advise how to build a 150 story
sky-scraper!". True, if a someone is about to build a sky-scraper, they should
not bother with the details on how to make a shelf (they'll hire someone to do
that), but most people will never need to build a sky-scraper in their lives,
while building shelves is a useful skill.

Similarly, most hobbyist (or even most professional) programmers will benefit
more from advice on writing 10,000 line programs than from advice on how to
write 10,000,000 lines.

    -- Nadav Har'El
    -- Hackers-IL Message No 1,222 ( http://tech.groups.yahoo.com/group/hackers-il/message/1222 )

Phoebe: Well, you know what Chandler? I think you've gotta face it. You're
like, the guy in the big office, you know. You're the one that hires them,
that fires them… They still say you're a great boss.

Chandler: They do?

Phoebe: Uh huh. But they're not your friends anymore.

Chandler: I just want to--

Phoebe: No, but you can't.

Chandler: But I just wa--

Phoebe: Uh uh.

    -- David Crane & Marta Kauffman
    -- "Friends" (T.V. Show) ( http://en.wikipedia.org/wiki/Friends )


Powered by UNIX fortune(6)
[ Main Page ]