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Kimi K2.5 Thinking

学問の分類とその限界——研究文化の構造から問い直す

ある分類学者は、自らの研究が理系と文系の境界に位置することを自覚していた。彼の仕事は、18世紀の文献を紐解きながら、最新の分子系統解析データも扱うという、博物学と実験科学のハイブリッドであった。だからこそ、理系の研究者たちが「最新の論文を数本」引用すれば研究が成立するという姿勢に違和感を覚えると同時に、その違いに深い敬意を抱いていた。分類学は、歴史的文脈を辿る文系研究と、実証的データを重視する理系研究の両方を内包するからである。

この違和感は、単なる分野間の軋轢ではなかった。むしろ、自然科学と人文社会科学という二つの大きな研究文化の構造的違いを、彼は鋭く察知していたのである。

自然科学においては、研究テーマの重要性についての合意が先行している場合が多い。がん研究がなぜ重要なのかを改めて問う必要はない。主戦場は「どうやって問題を解くか」であり、「現状との差分は何か」という点に集約される。先行研究は網羅的な説明ではなく、差分の位置取りに圧縮される。既存の問題をどう解決できるかで競争する世界である。

対して人文社会科学では、研究テーマの重要性自体が問われる。「それは本当に大事な問題ですか」という問いから始まる。だから先行研究は単なる差分提示ではなく、「論争地図」になる。誰が誰と何を争っているか、自分はそこにどう介入するかを示さなければならない。必然的に、先行研究の整理は長大になりがちである。ここでは「どうやったら問題が解けますか」ではなく「それって本当に問題ですか」が核心となる。

この構造的違いを、彼は「研究テーマにおける合意の強さ」という言葉で整理した。自然科学は共有された問題をめぐって腕を競い合う世界であり、人文社会科学は多様なテーマの中で、なぜそのテーマが重要なのかを正当化しなければならない世界である。競争の多寡ではなく、競っている種目が異なるのである。

しかし、この違いは研究文化の問題だけではない。制度と研究文化は表裏一体である。自然科学の文化が制度化すると、先行研究は差分提示で十分となり、新規性は既存問題の解決として定義され、論文は短くても良い、スピードと競争が価値となる。研究費競争やインパクトファクター、特許志向と相性が良い制度が、この文化を強化する。一方、人文社会科学の文化が制度化すると、先行研究の網羅的整理が必要となり、問題設定の正当化が必須となり、書籍文化が強く、長い時間軸で評価される。ところが近年、論文数至上主義や短期成果主義、国際誌偏重が持ち込まれると、問題設定に時間がかかる分野がスピード競争の制度に組み込まれることで、構造的な齟齬が生まれる。

彼の違和感は、理系の評価軸が標準モデルになり、そのモデルで全分野を測ろうとしていることへの反発であった。同時に、彼は人文社会科学が本来の役割——社会との接続、問題の自明化——を果たせていないことにも不満を抱いていた。文系を無条件に擁護しているのではなく、むしろ「ちゃんとやれよ」という内部批判も含んでいたのである。

ここで対話は転換する。彼は圏論という数学の分野に興味を持ち始めた。AIやビジネスに限らず、様々な思考を圏論に置き換えて考えることが多くなったと語る。計算というより抽象的思考の方法論であり、数学が苦手な人でも読めるはずだと。高校数学とは全く別物であり、別の意味での難しさがあるが、慣れるまでは大変かもしれないと。

圏論がAI時代の最強の学問になると彼は考えた。AIに「代わりに計算しといて」とは言えるが、「代わりに理解しておいて」とは言えない。デカルトの「コギト・エルゴ・スム」——我思う、故に我あり——の通り、人間に残るAIに委任できない最小の確実性が、自分の頭で考えて理解することである。そのための最強の方法論が圏論なのだと。

圏論は「対象」よりも「射(関係)」を見る。部門間の関係、モデル間の変換、抽象構造の保存、異なる体系の翻訳——これらに強い。AI時代に無数のモデルとデータと手法がある中で、重要なのは「それらの間の変換は何か」「何が保存されているか」「どの抽象レベルで同型か」を考える力である。これは計算力ではなく、構造を見る力である。

しかし理解は圏論だけでは生まれない。具体例、失敗、違和感、文脈が必要だ。圏論は骨格を与えるが、血肉は経験や具体にある。AIは可換図式を生成し、証明を補助し、定義を整理できる。でも「どの問題を立てるか」「どの抽象が有意味か」「どこで止まるか」はまだ人間側の仕事である。人間に残る最小の確実性は理解することであり、それは圏論を知っていることではなく、抽象レベルを自在に移動できることかもしれない。圏論はその最高度の訓練装置の一つである。

対話はさらに、AIとの関係というテーマへと広がる。最近、誰にも言わないことをAIに相談する人が増えたと彼は観察する。人はもう、誰かに理解されたいんじゃない。否定されずに、頭の中を整理したいだけだ。共感より安心が勝ったとき、会話は人間から離れる。そのとき、やさしさとは共感ではなく、安全に独り言が言えることになる。これから人間関係は減らないけれど、相談の相手だけが減る。さあ、どうする、人間。

AIとの対話は「安全な思考空間」の外部化である。人間相手には相手の評価があり、立場があり、記憶が残り、関係性に影響する。AIは立場を持たず、社会的利害がなく、噂を広めず、感情的に傷つかない。究極の安全な独り言の場所となる。共感は時として「押し付け」や「期待」の裏返しになるが、AIとの対話は否定せず、並べるのを手伝うだけである。

この観察は、読書という行為と重なると彼は気づく。読書は誰かが書いた情報を読み込むものだが、読みながら自分で相槌を打ち、感心し、様々な感情を織り混ぜながら次のページに進む。独り言は言わないけれど、心の中ではお話をしながら進む。読書が多い人は精神的に安定するという検証結果もある。読書は他者の言葉を媒介にした自己対話であり、AIもまた、応答する独り言として、同様の機能を果たすのである。

ここで対話は、研究と教育の関係という、彼の専門的な関心へと戻る。研究と教育は本来切り離して語るべきものではないと彼は考える。研究によって論文を書けば学術界に直接的に貢献できるが、その成果が社会全体に浸透するまでには時間がかかる。一方で教育はより直接的な営みである。最新の研究成果だけでなく、その背後にある過去の研究の積み重ねや、試行錯誤の過程そのものを伝えることができる。知識の伝達にとどまらず、「知がどのように生み出されるのか」というプロセスを共有することが教育の本質である。だからこそ、大学教員は研究者であると同時に教育者でもある。

1000年前と現在とでは人々の生活様式も思想も文化も大きく異なる。変わらないからこそ価値を持つ伝統もあるが、社会を変化させてきたのは体系化された知の蓄積である。その多くは意識されることなく、社会の前提として組み込まれている。私たちは日常の中で学問の存在を強く意識することはないかもしれない。しかし、社会の制度や技術、価値観の背後には、長い時間をかけて積み上げられてきた知が確かに存在している。研究者はその知を更新し続ける存在であり、教育はそれを次の世代へと手渡す営みである。研究と教育は、社会の自己更新を支える両輪なのである。

このように考えると、学問を理系・文系という区分だけで価値づけることにはどこか無理がある。社会を支えている知は多層的であり、互いに重なり合いながら機能しているからである。「その研究は何の役に立つのか」と問われたとき、研究者側も自分なりの答えを持つべきだという考えには理解がある。しかし、同じ立場に立ちながら「文系は役に立たない」と断じてしまうのは、相手の議論を十分に聞く前に一部の情報だけを見て結論を出しているように感じる。問うべきなのは「文系は役に立たない」ではなく、「文系の研究は何に貢献し得るのか」ではないか。そしてこの問いは、文系にも理系にも等しく向けられるべきものである。

歴史研究は大河ドラマのような文化的コンテンツを豊かにするだけでなく、史料を読み解き、制度や社会の変化を比較可能にするという意味で、「社会の自己理解の道具」でもある。古文や漢文の研究が社会に還元されてきたからこそ、私たちは過去の人物の思想に触れることができ、現代の文化コンテンツを楽しむこともできる。政治思想や経済学、法学の研究は、福祉制度や医療制度の設計・変更といった具体的な制度形成の基盤を支えている。学問は目立つ形ではなくとも、私たちの生活の前提を作り続けている存在である。

しかし、この立場は文系的批判から見ると、いくつかの前提を疑われる余地がある。まず「社会の自己更新」という前提自体が近代的であるという批判がある。社会は常に更新を目指すべきなのか、「進歩」「更新」という語は価値中立か、それは近代西洋的時間観に依存していないか。フーコー的に言えば、知は社会を更新するのではなく権力の配置を再編するものであり、学問は「社会をよくする装置」ではなく統治の技術でもある。こう見ると、研究と教育が社会の自己更新を支えるという議論はやや楽観的に見える。

次に「役に立つ」という枠組みを受け入れている点も指摘される。デリダ的に言えば、有用性で測れるものだけを価値とする思考自体を解体する必要がある。文系の一部にとって学問は無用であること、遅いこと、生産性と無縁であることに意味がある。さらに「社会」という主体は本当にあるのかという問いも出る。社会は一枚岩ではなく、周縁、少数者、非制度的知が常にある。「社会を支える知」という言い方は中心的制度に組み込まれた知を前提にしていないか。

また、研究と教育の理想像は制度的現実と乖離していないかという現実批判も入る。現在の大学制度は本当に両輪を可能にしているか、研究業績偏重が教育を圧迫していないか、教育は知の伝達ではなく再生産装置になっていないか。そして「知への信頼」は無垢すぎないか。アドルノ的に言えば、理性そのものが暴力に転化しうる。学問は社会を支えると同時に社会を縛るとも言える。

これらの批判は、彼の立場がかなり誠実で建設的であることを損なわない。むしろ、知的に誠実な立場だからこそ、さらに一段抽象化された問いに耐えうる。問題はサーベイでも制度でもなく、組織が「数値で安心しようとする構造」にあるとも言える。ここまで踏み込むと、議論は一気に制度批判へと広がる。

対話の最後に、彼はエンゲージメントサーベイという組織調査ツールの問題提起を提示する。それが組織を良くするための武器ではなく、管理職を追い詰める重荷になっている現状を、過去の偉人たちの言葉を借りて紐解く。ドラッカーの「測定できないものは管理できない」という言葉が、測定を自己目的化する組織文化を生む。ゲーテの「知るだけでは不十分だ」という言葉が、知ることと行うことの乖離、権限と責任の非対称性を示す。サン=テグジュペリの「海への憧れを教えよ」という言葉が、目的を見失った作業への転落を警告する。

しかしこれらの引用自体も批判的に読まれる余地がある。ドラッカーの言葉の使い方は正確か、という問い。実際にはそのフレーズは後世に広まった要約的表現に近く、彼は数字は現実の代理指標に過ぎないとも述べている。問題は測定そのものではなく、測定を自己目的化する組織文化にある。ここを制度設計の問題として掘らないと、やや個人責任論に寄ってしまう。

「無力感」は本当にサーベイ固有の問題か、という問いもある。KPI管理、業績評価制度、コンプライアンス監査、品質監査——すべてに同じ構造がある。権限と責任の非対称性が本質で、サーベイは症状にすぎない。サン=テグジュペリの引用は理想主義に傾いていないか、という批判もある。企業組織は株主責任や予算制約、労務管理、コンプライアンスといった現実の制約の中にある。理想の共有だけで持続可能な改善が起きるわけではない。

さらに踏み込めば、「エンゲージメント」という概念自体が労働者の感情を可視化し、組織パフォーマンスに結びつけ、内面まで管理対象にする新しい統治技術ではないかというフーコー的な批判もある。サーベイは単なる診断ではなく内面の管理という側面を持つ。そう見ると「重荷」になるのは当然とも言える。そして「武器」という比喩自体も危うい。武器である限り、誰かが傷つく構造は残る。必要なのは武器ではなく、翻訳機や温度計、鏡かもしれない。

こうして対話は、一つの研究者の個人的な違和感から始まり、研究文化の構造的違い、制度との関係、圏論という方法論、AI時代の人間性、研究と教育の循環、そして組織の数値化という現代的問題へと、同心円的に広がっていく。各段階で、彼は自らの立場を肯定しつつも、それを批判的に読む視点を内在化し、より深い問いを生成していく。

この軌跡が示すのは、学問とは決して完成された体系ではなく、常に自己を相対化しながら問いを深めていく営みであるということ。分類学者としての彼の経験——古い文献と最新のデータを同時に扱うというハイブリッドな実践——が、この問いの広がりを可能にしたのである。理系と文系の境界に立つ者だからこそ、両方の視点を取り入れつつ、両方を超える問いを立てることができた。

最終的に、彼の探究が到達するのは、特定の答えではなく、問いの在り方そのものである。研究と教育、計算と理解、共感と安心、測定と目的——これらの二項対立を単純に肯定または否定するのではなく、それぞれが持つ構造的可能性と限界を見極め、より豊かな問いを紡ぐこと。それが、AI時代における人間としての学問のあり方を示唆しているのである。

What I tell you three times is true.
		-- Lewis Carroll

 <rindolf>  Hi all.
 <rindolf>  LeoNerd: here?
 <LeoNerd>  rindolf: Maybe
 <rindolf>  LeoNerd: "be here or be not here - there is no maybe"
 <LeoNerd>  :)
 <rindolf>  LeoNerd: a.k.a the law of the exclusion of the middle.
     <dwu>  I think Yoda phrased that one best.

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