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カンディンスキーの抽象芸術理論の再検討――「対象の描写は絵画の美しさの邪魔になる」という主張の多層的考察

序論――芸術における根本的な転換点

ワシリー・カンディンスキーが提唱した「対象の描写は絵画の美しさの邪魔になる」という主張は、単なる個人的な美学的嗜好を超えた、芸術の本質と機能に関する根本的な転換を提案するものである。この思想は20世紀初頭、芸術が「何を描くか」から「どう描くか」へと移行する時代の産物であり、彼の著書『芸術における精神的なもの』(1911年)によって理論的基盤が確立された。カンディンスキーは、具象的な対象を描くことで、鑑賞者の注意が「何が描かれているか」という物語的・文学的な解釈に向いてしまい、色彩や形態そのものが持つ純粋な精神的・感情的効果が損なわれると考えた。

彼の理論の核心には三つの重要な要点が存在する。第一に、音楽が具体的な対象を描写しなくても感動を与えられるように、絵画も色と形だけで直接魂に語りかけるべきだという音楽との類比である。第二に、芸術家の内面的・精神的な必然性から生まれる抽象的な形態や色彩こそが、最も純粋な芸術表現だという内的必然性の概念である。第三に、具象的な対象は物質世界に縛られており、より高次の精神的真実を表現するには抽象化が必要だという物質性からの解放の思想である。

この考えは当時としては極端であったかもしれないが、抽象芸術という全く新しい表現形式を切り開く原動力となった。しかし、この主張を現代の視点から再検討することで、より豊かで複雑な芸術論の地平が開けてくる。

知覚理論と認知科学からの考察――「対象」が引き起こす認知的ノイズ

カンディンスキーの考え方は、人間の知覚が「認知的解釈」と「感覚的体験」の間で緊張関係にあるという問題を浮き彫りにする。現代の認知科学では、人は対象を瞬時に「識別」しカテゴリー化する傾向があり、それが純粋な視覚的体験を阻害する可能性が指摘されている。人間は画面の中に「家」や「馬」を見つけると、脳が即座に言語的なレッテルを貼り、「これは馬の絵だ」と理解して安心しようとする。この「安心」や「意味の理解」が、色彩や形態が直接神経に与える「振動」を感じる妨げになるとカンディンスキーは考えたのである。

彼が問題視したのは、具象的な対象が鑑賞者の脳に「これは何?」という即座の認識・命名作業を強いる点である。人は見慣れた対象を見つけると認知の省エネが働き、その瞬間、色彩・形・構成そのものの自律的な力は後景に追いやられる。結果として「物語を読むモード」に切り替わり、絵画固有の「直接的な精神的振動」、すなわち内的共鳴が弱まってしまう。カンディンスキーは、この認知的ショートカットを意図的に断ち切ることで、より深い感覚的・感情的層に直接アクセスすることを目指したと言える。

現代の認知科学の知見によれば、抽象画と具象画では眼球運動や脳の活性化領域が大きく異なることが研究で示されている。具象画は「物体認識」の脳回路を強く使い、抽象画はより拡散的・感情的な処理を促す傾向がある。この意味で、カンディンスキーの主張はある程度科学的に裏付けられていると言えよう。しかし同時に、人間はそもそも「意味」を求める存在であり、完全な抽象に直面したとき、むしろ混乱や距離感を抱く場合があることも事実である。対象の描写が「邪魔」ではなく、「理解の手がかり」として機能している可能性も考慮する必要がある。

美的経験の二重性――「美」と「意味」の緊張関係

カンディンスキーの主張は、美的経験における「感性的な美」と「認知的・物語的な意味」の分離可能性を前提としている。彼は前者を「純粋な」絵画的価値として崇拝した一方で、後者を「邪魔」と見なした。色彩や構成、調和など直接的な感覚的喜びこそが真の美であり、主題や象徴、文脈といった認知的要素はその体験を損なうものだと考えたのである。

しかし、この二分法そのものが問い直すことが可能である。両者は本当に分離可能なのか、あるいは相互に豊かにし合うものなのかという問題は、現代美学の重要な論点となっている。カンディンスキーが「対象の描写は絵画の美しさの邪魔になる」という考えを定義した際、彼が「美しさ」と呼ぶものは、従来の視覚的調和や写実的完成度ではなく、「内的必然性」に基づく精神的共鳴であった。彼にとっての「美」は、感覚的快楽ではなく、魂の振動として捉えられている。これはプラトン的な「真の美」への志向とも通じるが、一方で、この「美」の基準が極めて主観的かつ神秘主義的である点が問題視されることもある。

もし「美しさ」が鑑賞者の内面に依存するものであるなら、「対象の描写が邪魔になる」という主張自体も、万人に通用する普遍的真理ではなく、特定の芸術観に基づく価値判断にすぎないのではないだろうか。また、「美」を純粋な視覚的調和に限定することは、物語性、社会的文脈、概念的な深さなど、絵画の他の価値を切り捨てる危険性がある。対象を描くことで可能になる社会的批評、歴史的記録、文化的アイデンティティの表現といった重要な芸術機能を軽視しているとの批判も成り立つ。

歴史的発展とその逆説的帰結

カンディンスキーの思想は抽象絵画の誕生に決定的な役割を果たしたが、その後の芸術の展開は逆説的な帰結も生み出した。まず、純粋抽象の限界と形式主義への批判である。ミニマリズムや色面絵画など、徹底的に主題を排除した抽象は、時として観者に「空虚さ」や「装飾性」を感じさせ、かえって意味への渇望を生む結果となった。

次に、抽象の「新たな対象性」という逆説がある。抽象形態そのものが新たな「対象」や「記号」として認識され、再び意味解釈の対象となるのである。例えば、マーク・ロスコの色面は、特定の対象を描かなくとも、崇高や悲嘆といった強力な「主題」を帯びている。完全に具象を失った絵が単なる装飾に堕する危険があることは、カンディンスキー自身も晩年に認めていた。

さらに、抽象芸術内部にも複数のモダニズムが存在した。カンディンスキーの表現的抽象とは別に、ピエト・モンドリアンらの幾何学的抽象は、より普遍的な秩序や調和を追求し、「対象の排除」の意図が異なっていた。この二つの抽象芸術の対比は、抽象化という行為自体が一枚岩ではないことを示している。

カンディンスキーとモンドリアンの対比――二つの抽象への道

カンディンスキーとモンドリアンは、ともに「対象を描かない」という点では同じだが、その動機と目指したゴールは正反対と言えるほど異なっている。カンディンスキーが目指したのは「感情」と「音楽」であり、個人の内面から湧き出る精神的な震え、すなわちバイブレーションである。彼のアプローチは主観的であり、「私はこう感じる」という内なる必然性に従って、自由な線や色を配置するものだった。彼の絵画は即興のジャズや交響曲に例えられ、激しく、情緒的で、ドラマチックである。自然の「生命力」を抽出しようとした彼は、有機的で流動的な自由曲線を用い、多色でグラデーションのある、対比の激しい色彩を駆使した。

一方、モンドリアンが目指したのは「数学」と「静寂」であり、宇宙を支配する普遍的な法則や、完全な調和・バランスである。彼のアプローチは客観的であり、「世界はこうなっている」という前提のもと、個人の感情を排除し、誰もが否定できない垂直・水平線に還元する。彼の絵画は建築の設計図やグリッドに例えられ、静かで、理知的で、揺るぎないものである。自然の「不規則さ」を排除しようとした彼には有名な逸話がある。モンドリアンはカフェで窓の外の緑、すなわち木々が見えないように席を変えたという。彼にとって自然の形は「純粋な美」である垂直・水平を乱すノイズだったのである。

モンドリアンの作品は幾何学的で直線のみ、直角のみで構成され、原色に非色を加えた明確なブロックで描かれている。彼が追求したのは純粋な関係性であり、絶対的なバランスである。彼の絵画を見る時の感覚は、静かに呼吸が整う瞑想的な落ち着きである。対して、カンディンスキーの作品を見る時の感覚は、嵐の中に入るような、感情が揺さぶられる体験である。どちらの抽象も「対象を排除した」結果であるが、到達した世界は驚くほど対照的である。

カンディンスキーの芸術的変遷――理論から実践へ

カンディンスキーがどのようにして「対象」を画面から消し去り、彼の理論である「純粋な響き」へと到達したのか、その劇的な変遷は三つの段階に分けて理解することができる。この変遷を追うことで、「対象の描写が邪魔になる」という言葉が、単なる思いつきではなく、実践の中で確信に変わっていったプロセスが見えてくる。

第一段階は、物質の溶解期とも呼べるムルナウ時代(1908-1910年頃)である。この時期は「まだ何が描かれているかわかるが、色が主役になり始めている」段階である。初期のカンディンスキーは、ドイツのムルナウという村で風景画を描いていた。この時期の作品では、「家」「山」「木」といった対象はまだ認識できる。しかし、色は現実の色、すなわち緑の葉や茶色の土を無視し、彼の内面的な感覚で塗られている。青い木や紫の道などが登場する。対象の形は残っているが、輪郭は単純化され、色は強烈な輝きを放っている。対象そのものよりも「色の響き」を聞かせようとしている初期段階である。

第二段階は、決定的な転機となった叙情的抽象期(1910-1914年頃)である。この時期は「対象をあえて隠し、感覚だけを残す」段階である。カンディンスキーの理論を決定づけた有名なエピソードがある。ある夕暮れ時、彼がアトリエに戻ると、壁に「信じられないほど美しい、内面的な輝きに満ちた絵」がかかっていた。近づいてよく見ると、それは横倒しに置かれた彼自身の風景画であった。この時の発見は決定的だった。「何が描いてあるか」という対象が分からなくなった時こそ、絵画は最も美しく輝く。対象の意味、すなわち「これは家だ、木だ」という認識は、純粋な美の邪魔をしていたのだ。

この「逆さまの絵」事件以降、彼は意図的に対象を崩し始める。『コンポジション』シリーズの初期などでは、大砲や馬、城といったモチーフがまだ隠されているが、それらは線と色の嵐の中に埋没し、判別が難しくなっている。これを彼は「隠された構築」と呼んだ。『コンポジションⅦ』(1913年)は、カンディンスキーが「最も複雑で、最も調和的」と自ら評した大作である。洪水・最後の審判・エデンの園など複数のテーマが同時に鳴り響くような、音楽的・激情的な抽象となっている。この絵の中には、実は「馬に乗るコサック兵」や「虹」などが隠されているが、一見すると単なる色の氾濫に見える。

第三段階は、完全な抽象へと至るバウハウス時代の幾何学的抽象期(1922-1933年頃)である。この時期は「対象が消滅し、精神の文法だけが残る」段階である。第一次世界大戦を経て、バウハウスで教鞭をとるようになると、彼の絵からは「筆跡」や「感情の揺れ」すらも姿を消す。代わりに登場するのが、定規やコンパスで描いたような円、三角、直線である。ここで彼は「対象の描写が邪魔」という理論を極限まで推し進めた。現実世界のいかなる有機的な形、すなわち花や動物に見える形も排除し、幾何学形態という普遍的な言語だけで画面を構成した。

『コンポジションⅧ』(1923年)では、円・三角・直線が数学的・宇宙的な秩序を感じさせる。以前の「熱い抽象」、すなわち感情的な筆致から、「冷たい抽象」、すなわち理知的な構成へと変化したが、目的は同じく「魂への直接的なアクセス」である。円や線こそが、最も純粋な精神の響きを持つと考えたのである。

色彩と形態の言語化――共感覚的アプローチ

対象を捨てた後、カンディンスキーは無秩序に描いたわけではない。「対象」の代わりに、独自の「色彩言語」を構築した。彼は共感覚、すなわち音を聞いて色が見えるといった能力の持ち主だったと言われており、色と形には特定の「響き」があると定義した。

黄色は地上的、攻撃的、狂気、外への発散を意味し、トランペットの鋭い音に例えられた。青色は天上的、静寂、後退、内への収斂を意味し、チェロやパイプオルガンに例えられた。円形は魂、安定、宇宙的な調和を表し、三角形は鋭敏、動き、上昇する精神を表すとされた。彼は「対象」を描く代わりに、これらの要素を指揮者のように配置し、画面上で「視覚的な交響曲」を構成しようとした。

この理論の発展において重要なのは、鑑賞者の役割の変化である。具象画では、鑑賞者は画家が提示した世界を受動的に受け取る。しかし、抽象画では、鑑賞者自身がその混沌の中に秩序や感情を見出さなければならない。受動から能動への転換である。カンディンスキーは、対象を取り除くことで、鑑賞者の想像力が入り込む「余白」を作り出した。これにより、作品は鑑賞者の魂の中で初めて完成すると考えられる。これは共同創造とも言える関係性である。

現代デザインへの影響――バウハウスから色彩心理学へ

カンディンスキーの「対象の描写は邪魔」という思想は、絵画の枠を超え、現代のデザイン哲学に直結している。彼は後にバウハウスで教鞭をとり、「点・線・面」が人間に与える心理的効果を体系化した。この教育はモダンデザインの基礎となり、現代に至るまで影響を与え続けている。

UI/UXデザインにおいて、アプリアイコンやロゴデザインで「具体的な説明よりも、色と形で直感的に機能を伝える」という現代の手法は、カンディンスキーの理論の延長線上にある。私たちが毎日見ているスマートフォンの画面、すなわちアプリアイコンを想像すれば明らかである。具体的な「封筒」の絵よりも、抽象化されたラインだけのメールアイコン、リアルな「カメラ」の絵よりも、単純な円と四角のインスタグラムアイコンが使われている。これらは、カンディンスキーが目指した「対象の具体性を捨て、本質、すなわち機能や感情だけを色と形で伝える」という思想が、100年後のデジタル社会でUIデザインとして結実した姿と言える。

カンディンスキーが著書『芸術における精神的なもの』で定義した「色の響き」、すなわち色が持つ意味は、現代のマーケティングやロゴデザインの教科書と驚くほど一致している。企業は「言葉で説明する前」に、色と形で消費者の無意識にメッセージを届けるために、この理論を使っている。

黄色について、カンディンスキーは「鋭いトランペットの音」と定義し、地上的、外への発散、攻撃的で、狂気や強烈なエネルギーを秘めた色とし、三角形と相性が良いとした。現代の心理学・デザインでは、黄色は「注意喚起」「楽観」「安さ・親しみ」を表す。マクドナルドの黄色のMは食欲と楽しさ、そして遠くからでも目立つトランペットのような誘目性を持っている。IKEAやBest Buyでは、「安さ」や「活気」をアピールし、消費者の購買意欲を刺激している。

青色について、カンディンスキーは「チェロやパイプオルガンの音」と定義し、天上的、内への収斂、深くなればなるほど静寂と純粋さを増す色とし、円形と相性が良いとした。現代の心理学・デザインでは、青色は「信頼」「知性」「冷静」「誠実」を表す。FacebookやX(旧Twitter)では、興奮を鎮め、長く滞在させるための落ち着きを提供している。IBM、みずほ銀行、Intelなどでは、「感情」で動くのではなく、「論理」と「信頼」で動く企業であることを、青い色が雄弁に語っている。

赤色について、カンディンスキーは「ファンファーレや太鼓の音」と定義し、内燃するエネルギー、男性的、強烈な意志を表すとした。現代の心理学・デザインでは、赤色は「情熱」「緊急」「興奮」「食欲」を表す。NetflixやYouTubeでは、ユーザーの心拍数を上げ、興奮、すなわちエンターテインメントへの期待を高める色として使われている。Coca-Colaでは、エネルギッシュで活動的なイメージの象徴となっている。

抽象表現主義への影響も見逃せない。カンディンスキーの思想は、後にジャクソン・ポロックやマーク・ロスコといったアメリカの抽象表現主義へ受け継がれ、「感情の直接的な記録」としての絵画を定着させた。「形と色が感情を表す」という考え方は、現代ではUI/UXや心理学における標準的なアプローチとなっている。

皮肉にも、あるいは必然的に、カンディンスキーが「絵画」を物質から解放しようとした理論は、現代社会を構築する最も物質的・経済的なツール、すなわち広告・デザインの基礎理論となっている。

批判的視点と反論の可能性

カンディンスキーの主張には、いくつかの批判的視点から問い直すことができる。まず、感覚と知覚の不可分性という問題がある。人間の視覚体験は、純粋な感覚と認知的解釈が不可分に結びついている。対象を排除しても、観者は無意識的に形態を何らかの事物や経験と結びつけて解釈しようとする傾向がある。完全に「純粋な」視覚体験など存在しないのではないかという疑問が生じる。

次に、具象と抽象の二元論の限界という問題がある。カンディンスキーは具象と抽象を対立軸として扱うが、実際の芸術史においては、両者はしばしば融合している。たとえば、パウル・クレーは抽象的要素を用いながらも、風景や生物の痕跡を残しており、鑑賞者はそれらを「読み取る」ことで新たな意味を生成する。また、ルネ・マグリットのようなシュルレアリストは、具象を用いて現実の枠組みを揺さぶり、かえって精神的・哲学的な問いを喚起している。対象の描写が必ずしも「邪魔」になるとは限らず、むしろそれが抽象的な感情や思想への入口となる場合もあり得る。つまり、「何が描かれているか」が「どう感じられるか」を媒介することもあるのである。

さらに、現代における「物語性」の価値再評価という視点がある。21世紀の芸術論では、かつて「文学的」「物語的」として忌避された要素が、ポストモダン以降の文脈で再評価されている。ジェフ・ウォールやシンディ・シャーマンなどの現代アーティストは、明確なナラティブや社会的文脈を作品に取り入れつつ、深い批評性や感情的インパクトを生み出している。カンディンスキーが恐れた「物語への傾斜」こそが、現代では観客と作品をつなぐ重要な接点となっている。純粋な抽象が持つ「普遍性」よりも、個別の物語が持つ「共感可能性」が、今日の芸術においてより重視されているとも言えるだろう。

東洋美術との比較――文化的相対化の視点

興味深いことに、カンディンスキーの抽象志向は、日本の水墨画や禅画における「余白」や「不完全性の美」と表面的には似ているが、その根底にある思想は異なる。東洋美術では、対象を省略することで「観る側の想像力」を呼び起こすことが目的であるが、それは決して対象を否定するのではなく、むしろその存在を暗示的に肯定している。対象を完全に描かないことで、かえってその存在をより強く感じさせるという逆説的な効果がある。

「対象の描写が邪魔になる」という考えは、西洋的な形而上学、すなわち精神対物質という二元論の産物であり、非西洋的な美意識からは異なる結論が導かれるかもしれない。東洋美術における「空」や「無」の概念は、対象の否定ではなく、対象を超えた次元への開放性を意味している。この文化的相対化の視点は、カンディンスキーの理論が普遍的真理ではなく、特定の文化的・歴史的文脈の中で生まれた一つの立場であることを示している。

カンディンスキー自身の揺れと晩年の展開

興味深いのは、カンディンスキー自身が生涯を通じて完全な対象排除には実は慎重だった点である。1910年から1914年頃の激しい抽象化の時期を過ぎると、バウハウス時代(1920年代中盤以降)には再び幾何学的な「抽象された対象」のようなモチーフ、すなわち円・三角・格子・チェス盤的形象が頻出する。晩年のパリ時代(1930年から1940年代)は、再び有機的で生物的な連想を誘う柔らかい形態が増えている。

本人も「完全に具象を失った絵は単なる装飾に堕する危険がある」と述べている。つまり彼の最終的な立場は、「対象を支配させないこと」、すなわち「対象が主役にならないこと」であり、「対象を一切使わないこと」ではなかったと言える。この点は現代の抽象表現主義やミニマリズム、現代の具象と抽象のハイブリッド表現と比較すると非常に興味深い。

カンディンスキーが対象を排除し続けた旅路は、「絵画を『見る』ことから『聴く』ことへ変える実験」であった。彼にとって、具体的な対象、すなわちリンゴや裸婦を描くことは、音楽家が自然の音、すなわち鳥の鳴き声や波の音をそのまま録音して流すようなものであった。彼はそうではなく、ピアノの鍵盤を叩いて純粋な「音」を出すように、キャンバス上で純粋な「色と形」を響かせたかったのである。彼の作品が後期になるほど幾何学的でデザイン的に見えるのは、それが「感情の楽譜」として書かれているからである。

現代アートにおける展開――2026年の視点から

2020年代後半から2026年現在では、「対象は邪魔か?」という二元論自体がやや古くなりつつあり、「対象をどう扱うか」「どの程度の認知負荷を与えるか」が問題の中心に移っている。現代アートでは、カンディンスキーの厳格な二分法を超える動きが見られる。

ポスト・インターネット世代は、「対象なんてどうでもいい。ミーム・データ・アルゴリズムの流れこそ本質」と考え、NFTアート、AI生成アート、Glitchアートなどを制作している。新しい具象回帰派は、「カンディンスキーの時代はもう終わった。現代人は再び物語と身体性を求めている」として、フィギュラティブ・ペインティングを再評価している。Nicole EisenmanやAdrian Ghenieなどがその代表である。

ハイブリッド抽象の作家たちは、「対象は使うが、主役にはさせない。むしろ対象を解体・再構成することで精神性を出す」という立場をとる。Julie Mehretu、Julie Cockburn、Mark Bradfordなどがこの方向性を代表している。多くの現代作家が、抽象的な要素と具象的な断片を一つの画面内で併置し、両者の間のダイナミックな対話を創出している。

極端な物質性回帰を志向する作家たちは、「精神性なんて幻想。絵具の物質性・身体性・労働こそが現代の真実」として、プロセス・アート、モノクローム絵画の再評価を行っている。抽象的であっても、政治的、個人的、文化的な文脈を強く帯びた作品が多く生まれており、「純粋な視覚」と「意味」は対立項ではなく、層をなすものと捉えられるようになってきている。

デジタルアートやインスタレーションにおいては、「対象」が物理的事物からデータ、光、時間、関係性へと拡張され、カンディンスキーの議論自体の前提が更新されている。AI画像生成の時代になって、「何でも描ける」状況になったからこそ、改めて「何を描くべきか/描かざるべきか」という根源的な問いが浮上しているとも言える。

結論――弁証法的統合への道

カンディンスキーの主張は、当時の芸術が陥っていた自然主義や装飾主義からの脱却という歴史的使命を果たした。それは、芸術が「目に見える世界の模倣」から「目に見えない内的現実の表現」へと飛躍するための強力な理論的武器となった。絵画の自律性と表現の純度を追求する革命的な宣言としての歴史的意義は計り知れない。

しかし、今日の視点からは、この主張を「絶対的真実」ではなく、芸術の可能性を開くための一つの極点として捉えることがより生産的である。「対象の描写は絵画の美しさの邪魔になる」という図式はあまりに単純であり、具象と抽象は互いに補完し合う可能性を秘めている。真に豊かな芸術表現とは、その緊張関係のなかで生まれるものではないだろうか。

「美しさ」を妨げるものは、対象そのものではなく、対象への執着や形式の惰性なのかもしれない。カンディンスキーが本当に警告したかったのは、「何を描くか」ではなく、「なぜ描くか」を見失う危険だったのだと解釈することもできる。彼が提示した「対象描写」と「絵画的美」の緊張関係は、芸術家が常に直面する根本的な選択、すなわち「何を表現し、何を省略するか」を鋭く浮き彫りにする問いであり続けている。

重要なのは、この二者択一を超え、感覚的体験と認知的意味、形式と内容、純粋性と複合性が織り成す豊かなスペクトルの中で、新たな表現を探求することである。カンディンスキーの問いは、我々に「絵画とは何か」「美を体験するとはどういうことか」という根源的な問題を、今なお投げかけ続けているのである。この問いに対する答えは、時代とともに変化し、また個々の芸術家や鑑賞者によって異なるだろう。しかし、その問い自体の価値は決して色褪せることがない。

What they really mean is, don't get demoralized. Don't think that you can't do
what other people can. And I agree you shouldn't underestimate your potential.
People who've done great things tend to seem as if they were a race apart. And
most biographies only exaggerate this illusion, partly due to the worshipful
attitude biographers inevitably sink into, and partly because, knowing how the
story ends, they can't help streamlining the plot till it seems like the
subject's life was a matter of destiny, the mere unfolding of some innate
genius. In fact I suspect if you had the sixteen year old Shakespeare or
Einstein in school with you, they'd seem impressive, but not totally unlike
your other friends.

Paul Graham
"What You'll Wish You'd Known" - http://www.paulgraham.com/hs.html

    -- Paul Graham
    -- "What You'll Wish You'd Known" ( http://www.paulgraham.com/hs.html )

I disagree with your generalization that physicists are smarter than
professors of French Literature.

Try this thought experiment. A dictator takes over the US and sends all the
professors to re-education camps. The physicists are told they have to learn
how to write academic articles about French literature, and the French
literature professors are told they have to learn how to write original
physics papers. If they fail, they'll be shot. Which group is more worried?

We have some evidence here: the famous parody that physicist Alan Sokal got
published in Social Text. How long did it take him to master the art of
writing deep-sounding nonsense well enough to fool the editors? A couple
weeks?

What do you suppose would be the odds of a literary theorist getting a parody
of a physics paper published in a physics journal?

    -- Paul Graham
    -- Re: What You Can't Say ( http://www.paulgraham.com/resay.html )


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