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専門性という名の免責構造――成果主義と官僚制が織りなす制度的暴力

序論:逸脱が「黙認」される構造

高度に専門化された組織において、不祥事が発覚したとき、私たちはしばしば「個人の倫理的逸脱」という説明に安住する。しかし、そうした理解は問題の本質を覆い隠す。なぜなら、逸脱は孤立した異常事態ではなく、組織が日常的に機能する過程そのものから生成されるからである。

本稿が扱うのは、ある大学医学部における一連の不祥事を素材としながら、そこに潜む普遍的な構造である。注目すべきは、「成果を出している限り、多少の逸脱は黙認される」という暗黙の評価基準と、「官僚制による免責」という制度的メカニズムが、いかにして組織内部の暴力性を不可視化するかという問題である。

Ⅰ. 評価の二重基準――成果と倫理の非対称性

1. 測定可能性が支配する評価構造

現代の研究・医療機関における評価は、高度に数値化されている。研究費獲得額、論文被引用数、臨床症例数、外部資金導入実績――これらは客観的で比較可能な指標として機能する。この測定可能性は、一見すると公正で透明な評価を保証するように見える。

しかし、ここに根本的な非対称性が存在する。成果は数値化できるが、その過程における倫理性・透明性・公正性は数値化できない。利益相反の管理、意思決定の透明性、権限行使の妥当性といった要素は、評価指標として組み込まれにくい。なぜなら、それらは測定が困難であり、また測定しようとすれば組織の効率性を損なうと認識されるからである。

2. 「成果による免罪」という暗黙の契約

この非対称性が生み出すのは、「成果を出している限り、過程は問われない」という暗黙の了解である。研究費を大量に獲得している教員、多くの症例を扱う医師、社会的に著名な専門家――彼らに対しては、細かな手続き上の瑕疵や、倫理的に微妙な判断が「些事」として扱われる傾向がある。

これは単なる見逃しではなく、組織が機能するために必要な取引として内面化される。なぜなら、成果を出す人材を細かく監視すれば、彼らの生産性が低下し、組織全体のパフォーマンスが下がると信じられているからである。ここに、評価制度そのものが倫理的逸脱を促進する構造が存在する。

3. 文系知による規範的抵抗

この評価構造に対して異議を唱えるのが、法学・政治学・社会学といった文系知である。文系知は、成果の量的評価ではなく、過程の規範的評価を重視する。それは、行為の結果だけでなく、その正当性・透明性・説明可能性を問う知的営みである。

文系からの批判は、しばしば「実務を知らない理想論」として退けられる。しかし、それは批判の本質を誤解している。文系知が問うているのは、「成果があれば何をしてもよいのか」という根源的な問いである。この問いは、組織が単なる成果追求装置ではなく、公共的正当性を持つ制度であるための条件を示している。

Ⅱ. 官僚制の逆説――合理性が生む無責任

1. 官僚制の理想と現実

ウェーバーが示したように、官僚制は近代社会における最も合理的な組織形態である。それは、

を特徴とし、個人の恣意性を排除し、予測可能で効率的な組織運営を可能にする。

しかし、官僚制には本質的な逆説が内在する。誰もが規則に従うことで、誰も全体に責任を負わなくなるのである。各人は自分の職務範囲内で規則を遵守すればよく、その結果として生じる全体的帰結については「自分の責任ではない」と主張できる。

2. 教授会自治という免責装置

大学における教授会制度は、この官僚制的免責の典型例である。教授会は、

という理念のもとに設計された。しかし実態として、それは責任の所在を曖昧化する装置としても機能する。

意思決定は「合議」によってなされるため、個々の教授は「自分一人の判断ではない」と言える。組織的な失敗は「制度の問題」とされ、個人の責任は希釈される。異議を唱えることは「専門性への介入」として排除される。こうして、教授会自治は、外部からの監視を拒絶しながら、内部からの自浄作用も機能不全に陥らせる構造を生み出す。

3. 「手続きの正当性」という隠れ蓑

官僚制においては、「手続きが正しければ、結果も正しい」という論理が支配的になる。しかし、これは危険な倒錯である。なぜなら、手続きの遵守と倫理的正当性は同一ではないからである。

例えば、外部資金の受け入れについて、形式的には規定に従っていても、その資金源との関係が利益相反を含んでいる場合がある。しかし、「手続き上は問題ない」という論理が優先されれば、実質的な倫理的問題は不可視化される。ここに、手続き的合理性が実質的倫理性を覆い隠すという、官僚制特有の暴力性が現れる。

Ⅲ. 制度と権力の相互構成

1. フーコー的権力の作動様式

フーコーが示したように、権力とは誰かが「持つ」ものではなく、日常的実践のネットワークの中で「作動する」ものである。医学部・病院組織における権力は、明示的な命令や強制としてではなく、以下のような形で作動する。

これらはいずれも、個別の命令ではなく、語り方・判断の基準・何を問題にしないかという空気として機能する。そして、こうした権力は、明示的でないがゆえに、抵抗することが困難になる。

2. 権力の不可視化としての専門性

専門性は、本来、知識の高度化と社会への貢献を意味する。しかし同時に、それは権力を正当化し、批判を排除する装置としても機能する。

「専門家でなければ判断できない」という論理は、外部からの監視を拒絶する盾となる。専門用語、複雑な手続き、内部者のみが理解できる慣習――これらはすべて、権力を不可視化し、説明責任を回避する手段となりうる。

3. 「打倒」という言葉が示す構造的暴力

「打倒教授会」という落書きは、権力の可視化の瞬間である。それは、権力が日常に溶け込みすぎて不可視化したとき、それを言語化し直す抵抗の形である。

重要なのは、この抵抗が「落書き」という形でしか表現できなかったという事実である。公式の会議でも、正式な文書でもなく、匿名の象徴的行為としてのみ可能だった。これ自体が、異議申し立てを許さない構造的暴力の存在を証明している。

若手研究者や学生が、正面から批判できない。異論は「不適格」とみなされる。沈黙が「適応」として評価される。こうした構造こそ、物理的暴力以上に深刻な、可能性を奪う暴力である。

Ⅳ. 恣意性――「問題化」の政治学

1. なぜ「今」問題になったのか

不祥事が発覚したとき、私たちは往々にして「違法行為が行われたから」と理解する。しかし、より根本的な問いは、「なぜそれが『今』問題化されたのか」である。

同様の慣行が過去にも存在していた可能性は高い。であれば、ある行為が「見逃される」か「摘発される」かを分けるのは、法そのものではなく、

といった、偶発的で政治的な要素である。

2. 評価制度における恣意性の二重性

恣意性は二つの層で作動する。

第一に、何を評価するかという選択における恣意性である。研究費獲得を重視するか、教育の質を重視するか、社会貢献を重視するか――これらは客観的に決定できない価値判断である。

第二に、誰が評価するかという問題における恣意性である。文系知が指摘するように、評価者の立場・学派・価値観によって、同じ行為の評価は180度変わりうる。「独創的」と「逸脱」、「効率的」と「倫理違反」の境界は、しばしば曖昧である。

3. 恣意性と正当性の緊張

この恣意性は、制度への信頼を根底から侵食する。なぜなら、人々は「規則が公正であること」以上に、「規則の適用が公正であること」を求めるからである。

ハーバーマスが示したように、正当性とは「納得可能性」である。それは、当事者でない者にも理由が説明でき、反論が可能であることを意味する。しかし、恣意的な適用が繰り返されれば、たとえ形式的には正しい手続きであっても、正当性は失われる

Ⅴ. 「正しさ」をめぐる闘争

1. 異なる規範体系の衝突

医学部内部の「正しさ」と、文系知が提示する「正しさ」は、根本的に異なる規範体系に属している。

医学部的正しさ:

文系的正しさ:

これは単純な優劣ではない。ルーマンの機能分化論が示すように、現代社会において、医療システムと法・倫理システムは、異なるコードで世界を理解する。前者は「治る/治らない」、後者は「正当/不当」という二値コードで作動する。

2. 通約不可能性という困難

問題は、これらの規範体系が相互に翻訳困難だという点にある。医学部側から見れば、文系の批判は「現場を知らない理想論」に映る。文系側から見れば、医学部の論理は「成果至上主義による倫理の軽視」に映る。

この通約不可能性は、単なるコミュニケーション不足ではない。それは、近代社会の機能分化そのものが生み出す構造的問題である。各システムは自己言及的に閉じており、他システムの論理を本質的に理解できない。

3. 公共的討議の可能性と限界

ハーバーマスが提唱する討議倫理は、この困難に対する一つの答えである。それは、異なる規範体系の担い手が、強制なき対話を通じて相互理解と合意形成を目指すという理念である。

しかし、ルーマン的視点からすれば、この討議は例外的で困難な橋渡しでしかない。なぜなら、システム間の翻訳には、常に「何かが失われる」という代償が伴うからである。医療の論理を法的言語に翻訳すれば、その実践的妥当性が損なわれる。逆に、法の論理を医療的言語に翻訳すれば、規範的厳密性が失われる。

Ⅵ. 暴力性の多層構造

1. 物理的暴力の不在と構造的暴力の遍在

本稿が扱う事例において、物理的な暴力は存在しない。誰も殴られていないし、直接的な脅迫もない。しかし、そこにはより深刻な構造的暴力が遍在している。

構造的暴力とは、直接的な加害者が不在でありながら、人々の可能性を系統的に奪う力である。それは以下のような形で現れる。

2. 正当化言説としての暴力

さらに巧妙なのは、暴力が正当化の言葉で覆われる点である。

これらはすべて、本来は価値ある理念である。しかし、それが権力を正当化する言説として動員されるとき、最も抵抗しにくい形の暴力となる。なぜなら、それに反対することが、あたかも「専門性」や「自由」そのものに反対しているかのように見えるからである。

3. アーレント的「悪の凡庸さ」

ハンナ・アーレントが示した「悪の凡庸さ」は、ここで決定的な意味を持つ。悪は、怪物的な人間や狂信的イデオロギーからではなく、思考停止と役割遂行から生まれる

これらの言葉は、個人が判断する主体であることを放棄した状態を示す。誰も「悪人」ではない。誰もが与えられた役割を誠実に果たしている。しかしその結果として、誰も責任を引き受けない悪が成立する。

官僚制は、この思考停止を構造的に促進する。なぜなら、規則があり、手続きがあり、会議も開かれているにもかかわらず、「私は止めるべきだった」と言える主体が不在だからである。

Ⅶ. ブルデュー的象徴資本と信用の構造

1. 象徴資本という見えない力

ピエール・ブルデューの象徴資本概念は、この問題に新たな次元を加える。象徴資本とは、名声・権威・学歴・称号など、それ自体は物質ではないが、他者からの信頼として蓄積される資本である。

大学医学部においては、

といった肩書そのものが、強力な象徴資本として機能する。

2. 象徴資本の二重機能

象徴資本は二つの機能を持つ。

第一に、それは疑いを予防する力である。象徴資本が高い人物の行為は、「きっと正当な理由があるはずだ」という推定を受ける。会計処理の曖昧さ、企業との距離の近さ、非公式な裁量――これらは「信頼できる人だから」で正当化される。

第二に、それは批判を無効化する力である。象徴資本が低い者が高い者を批判すると、「分をわきまえない」「嫉妬だ」とみなされる。批判の内容ではなく、批判者の地位によって、発言の重みが決まる。

3. 不祥事は象徴資本の裏切りではない

重要なのは、不祥事は象徴資本の「裏切り」ではなく、象徴資本が十分に機能していたからこそ起きたという点である。

象徴資本は、倫理性を証明するものではない。それは、倫理性を前提として仮定させる力である。その仮定があまりに強固であれば、実際の倫理性の検証は省略される。こうして、象徴資本は監視の不在を正当化する装置となる。

Ⅷ. 統合的理論構築――六つの視点の収束

ここまでの分析を統合すると、以下のような構造が浮かび上がる。

【第一層:象徴資本】 高い象徴資本が「疑わない空気」を作り出す

【第二層:フーコー的権力】 専門知と日常実践が、不可視の権力ネットワークを形成する

【第三層:ウェーバー的官僚制】 合理的な規則と手続きが、責任を分散・免責する

【第四層:ルーマン的機能分化】 システム間の言語的断絶により、外部批判が届かない

【第五層:ハーバーマス的正当性喪失】 公共的説明責任が果たされず、正当化言説が空洞化する

【第六層:アーレント的思考停止】 役割遂行が判断を代替し、「凡庸な悪」が生成される

これらは独立した要因ではなく、相互に強化し合う構造である。象徴資本が権力を不可視化し、官僚制が責任を分散し、機能分化が批判を遮断し、正当性の喪失が改革を空回りさせ、思考停止が再発を準備する。

Ⅸ. 構造的問題の哲学的考察

1. 専門性と公共性の根本的緊張

この問題の哲学的核心は、専門性と公共性の本質的な緊張にある。

専門性は、知識の高度化と社会の発展に不可欠である。しかし、専門性が極度に高まると、それは説明責任の拒絶を正当化する力に転化する。「専門家でなければ判断できない」という論理は、民主的統制を拒絶する貴族主義に至る。

他方、公共性の要求は、透明性と説明責任を求める。しかし、あらゆる専門的判断を非専門家に説明可能にすることは、実践的には不可能である。過度な説明責任の要求は、専門家の裁量を奪い、組織を機能不全に陥らせる。

この緊張は、単なる制度設計では解消できない。それは、近代社会の分業構造そのものが抱える矛盾だからである。

2. 評価の客観性という神話

第二の哲学的問題は、評価の客観性という神話である。

現代組織は、数値化・標準化・比較可能性を通じて、「客観的評価」を目指す。しかし、何を測定するか、どう重み付けるか、どの側面を無視するかは、すべて価値判断である。

論文数を評価すれば、質より量が重視される。インパクトファクターを評価すれば、流行の研究が優遇される。外部資金を評価すれば、産業界との癒着が生まれる。学生評価を重視すれば、厳格さが失われる。

完璧な評価指標は存在しない。すべての評価は、何かを強調し、何かを隠蔽する。問題は評価の恣意性そのものではなく、恣意性を自覚しない評価制度である。

3. 責任の個人化と構造化の往復運動

第三の問題は、責任を個人に帰属させるか、構造に帰属させるかという古典的ジレンマである。

個人責任論は、行為者の道徳性に訴え、処罰と抑止を可能にする。しかし、それは構造的要因を不可視化し、再発防止を困難にする。

構造責任論は、システムの欠陥を明らかにし、制度改革を促す。しかし、それは個々人の主体性を免責し、「私は悪くない」という言い訳を与える。

真の問いは、「どちらが正しいか」ではない。それは、個人と構造をどう媒介するかである。個人は構造に制約されながらも、構造を再生産する主体である。この循環的因果性を理解せずに、責任を論じることはできない。

4. 正義の複数性とその調停不可能性

第四の問題は、正義の複数性である。

医療の正義は、「最大多数の患者を救う」ことかもしれない。研究の正義は、「真理を追求する」ことかもしれない。行政の正義は、「手続きの公正さを保つ」ことかもしれない。市民社会の正義は、「権力の透明性を確保する」ことかもしれない。

これらは相互に矛盾しうる。最大効率は手続きを犠牲にし、透明性は専門性を制約し、真理追求は社会的配慮を軽視する。

ジョン・ロールズやマイケル・ウォルツァーが示したように、正義には複数の領域があり、それぞれに固有の論理がある。問題は、これらを誰がどのように調停するかである。

5. 改革の逆説――制度化が生む新たな権力

第五の問題は、改革そのものが新たな権力を生むという逆説である。

不祥事への対応として、新たな監視委員会、倫理規定、報告義務が導入される。しかし、これらの制度は、

可能性を持つ。

フーコーが示したように、権力は撲滅されるのではなく、より精緻な形で再配置される。露骨な権力が批判されれば、それは規則・手続き・専門知の中に溶け込んで生き延びる。

6. 言説の限界――語ることと変えることの断絶

最後の問題は、言説と実践の断絶である。

不祥事の後、必ず「反省」「改革」「再発防止」という言葉が語られる。しかし、これらの言葉がどれほど誠実であっても、それが実際の構造変化に結びつく保証はない

言説は、しばしば現実を変えるのではなく、現実を覆い隠す機能を果たす。「改革に取り組んでいる」という言説そのものが、実質的な変化を遅らせる煙幕となる。

ハーバーマスの討議理論は、理想的発話状況における合意形成を想定する。しかし現実には、権力関係が討議そのものを歪める。誰が発言でき、誰の言葉が重く扱われ、どの論点が議題となり、何が「現実的」とされるか――これらはすべて、既存の権力構造によって規定される。

Ⅹ. 結論――思考する主体の回復に向けて

1. 問題の本質的定式化

これまでの分析が示すのは、不祥事が「誰かが壊した結果」ではなく、すべてが「正常に」機能していた結果だということである。

にもかかわらず――いや、それゆえに――構造的暴力が生成された。

2. 単純な解決策の不在

したがって、「悪人を処罰すればよい」「規則を厳格化すればよい」「監視を強化すればよい」という単純な解決策は、問題の本質に届かない。

なぜなら、問題の核心は、高度に合理化された組織において、誰も全体を見渡す主体がいないという点にあるからである。

3. 思考する主体の回復という課題

真に問われているのは、どの地点で「考える主体」を回復できるかである。

それは以下を意味する。

4. 制度を超える倫理の可能性

制度は必要である。しかし、制度だけでは不十分である。なぜなら、どれほど精緻な制度も、それを運用する人間の判断を代替できないからである。

必要なのは、制度に従いながらも、制度を絶対化しない態度である。それは、

を意味する。

5. 文系知の役割再考

この文脈において、文系知の批判は、単なる外部からの非難ではない。それは、組織が組織として機能し続けるための、内在的必要性である。

文系知が問うのは、

これらの問いを失った組織は、遅かれ早かれ、より洗練された形で同じ過ちを繰り返すだろう。

6. 最終的な問い

最後に残る問いは、こうである。

私たちは、どこまで制度を信じ、どこから疑うべきなのか。

完全に疑えば、組織は機能しない。完全に信じれば、組織は腐敗する。この緊張を引き受け続けることこそが、思考する主体であることの条件である。

不祥事は終わりではない。それは、この問いを再び突きつける契機である。問題は、その問いから目を逸らさずに、構造の中で主体であり続けられるかである。

それができなければ、次に現れるのは「打倒」という言葉の別バージョンではない。制度改革でも、資金停止でもない。それは、組織が公共的正当性を完全に失う瞬間である。


本論考は、特定の事例を素材としながらも、あらゆる高度専門組織が直面しうる普遍的構造を描き出した。それは、大学に限らず、病院、企業、官庁、法曹界において、形を変えて繰り返される問題である。

重要なのは、この構造を認識し、自分がその一部であることを自覚することである。なぜなら、構造は「彼ら」の問題ではなく、私たち全員が再生産している現実だからである。

Q: How many hardware engineers does it take to replace a lightbulb?

A: None! We'll fix it in software.

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