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Claude Sonnet 4.5

物語駆動型経営の構造的欺瞞 - 確信の産業が回避する問い

現代の経営思想において、「ストーリー」や「物語」という概念が注目を集めている。海外メディアは企業が「物語を語れる人材」を求めていると報じ、日本でも経営コンサルティングの文脈で「物語駆動型経営」や「ビジョニング」といった言葉が流通し始めている。この潮流に対して、ある論者は「企業に欠けているのは語り手ではなく、語るべき物語そのものだ」と主張する。一見すると、これは表層的なストーリーテリング需要への健全な批判に見える。だが、この言説を注意深く分析すると、より深刻な構造的問題が浮かび上がってくる。

批判を装った需要の再定義

最初に理解すべきは、この「物語が見失われている」という診断そのものが、巧妙な需要創出の装置になっているという点だ。論者は「ストーリーテラーを雇うだけでは不十分だ」と言う。そして「本当に必要なのは、経営の中核に物語を据えることだ」と続ける。これは否定ではなく、階段を一段上げる操作だ。ストーリーテラーという職種が「外注・短期・局所的」な解決策であるのに対し、物語駆動型経営は「内在化・長期・全社横断的」な関与を意味する。

つまり、この論考は表面的には流行への抵抗として機能しているが、実際にはより高額で、より長期的で、より深い介入を正当化している。単発の語り手を派遣するビジネスよりも、経営の奥深くに食い込み、意思決定の根幹に関与するビジネスの方が、はるかに大きな市場価値を持つ。批判の形を借りた需要の再定義、あるいは需要のアップセルがここにある。これは欺瞞というよりも、産業として必然的に辿り着く構造だ。

「物語が失われている」という虚構

さらに重要なのは、「物語が見失われている」という診断そのものが、現実を単純化しすぎているという点だ。実際の企業組織において、物語は欠如しているのではない。むしろ複数の物語が並立し、衝突し、権力闘争の道具として利用され、あるいは意図的に曖昧にされている。

創業者は「顧客への貢献」を語る。財務担当役員は「株主価値の最大化」を語る。人事部門は「社員の成長と働きがい」を語る。営業部門は「市場シェアの拡大」を語る。これらの物語は互いに矛盾することがある。だが、誰も本気で統合しようとはしない。なぜなら、この曖昧さこそが各部門の自由度を保証し、責任の所在を分散させ、権力のバランスを維持しているからだ。

曖昧さは怠慢ではない。それは組織の政治的合理性そのものだ。明確な単一の物語を持つことは、同時に明確な責任と明確な失敗を意味する。多様な物語が併存する状態は、一見すると非効率で混乱しているように見えるが、実際には各ステークホルダーが自己の正当性を主張できる余地を残し、組織全体としての柔軟性を保つ機能を果たしている。

この意図された複雑さを、「物語が失われた」という無垢な欠如の物語に置き換えることは、徹底的に政治的な行為だ。それは組織の権力構造を単純化し、あたかも中立的な「物語の回復」によって解決可能な問題であるかのように見せかける。だが実際には、物語の統合は必然的に選択を伴う。誰かの物語を正統化し、誰かの物語を排除することを意味する。

権力の所在という回避された問い

ここで最も重要な問いが浮上する。単一の物語に統合するという行為において、その選択を誰が行うのか。経営者なのか。外部のコンサルタントなのか。対話のプロセスそのものが答えを導き出すのか。

この問いを明示せずに「物語を経営のど真ん中に据えよ」と語ることは、実は極めて政治的だ。それは特定の解釈に正統性を与え、異論を「物語に合わない」という理由で排除する装置を準備することになる。「対話」「覚悟」「ど真ん中」といった倫理的な語彙が、実際には権力の行使を包み隠す機能を果たす。これは意図的な悪意ではないかもしれないが、構造的には最も危険なタイプの言説だ。決定の暴力を、意味の必然性に変換してしまうからだ。

物語駆動型経営を提唱する論者は、経営者が「本当はどんな未来を見たいのか、何を恐れ、何を信じてきたのか」を対話を通じて掘り下げると言う。だがこの対話は、誰の物語を掘り下げるのか。経営者個人の物語なのか。それとも組織全体の集合的な物語なのか。もし経営者個人の物語を経営の中心に据えるのであれば、それは事実上、経営者の権力を正統化する作業になる。もし組織全体の物語を統合しようとするのであれば、その統合の過程で誰の声が優先され、誰の声が排除されるのか。

この権力の所在を曖昧にしたまま、「物語の回復」を語ることは、表面的には民主的で対話的に見えながら、実際には特定の権力構造を強化する結果をもたらしうる。

物語のインフラ化がもたらす両義性

物語が組織のインフラとして機能すると、確かに多くのメリットが生まれる。会議が短くなる。判断が速くなる。若手が自律的に動けるようになる。採用のミスマッチが減る。ブランドが一貫性を取り戻す。これらはすべて真実だ。

だが、これは硬貨の片面に過ぎない。強い物語を共有した組織は、全員が同じ方向に全速力で走る。それが正しい方向であれば、組織は驚異的な推進力を得る。だが、もしその方向が間違っていたら、全員で崖から落ちることになる。

間違った物語を経営インフラ化すると、異論が「物語に合わない」という理由で排除される。数値指標の歪みが「らしさ」や「ビジョンへの忠誠」によって正当化される。現実との齟齬が明らかになっても、修正が遅れる。物語の強度が高いほど、組織は変化への抵抗力を失う。

多様性や曖昧さは、一見すると非効率で非合理に見える。だが実際には、これらは物語が暴走したときの減速装置として機能している。組織内に複数の視点や複数の物語が併存することは、ある物語が間違っていたときに、別の視点から疑義を呈することを可能にする。単一の物語の強度と組織の脆弱性は、トレードオフの関係にある。

物語はブレーキでもあるという認識が、物語駆動型経営を提唱する言説には完全に欠けている。アクセルの効用だけが語られ、ブレーキの設計は黙殺されている。

最も売れない問い - 物語をどう壊すか

そして、ここに最大の矛盾が存在する。物語が本当に経営のインフラになるのであれば、必ず問われるべきことがある。作られた物語が現実と齟齬をきたしたとき、誰がどのような条件でそれを修正できるのか。物語を検証可能にする仕組みは何か。数字が物語を否定したとき、どちらを優先するのか。物語の寿命をどう判断するのか。

これらの問いに答えなければ、物語駆動型経営はカリスマ経営の言い換えに過ぎなくなる。だが、この問いはコンサルティング産業の構造上、最も語りにくい。なぜなら、クライアントは「答え」を買い、コンサルタントは「確信」を売るからだ。

「あなたの物語は間違っているかもしれない」という商品は売れない。「作った物語を壊す方法」を同時に提供することは、コンサルタント自身の存在意義を掘り崩すことになる。だから構造的に、物語の危険性は語られず、必要性だけが強調される。読者は物語の重要性には導かれるが、その限界からは遠ざけられる。

これは個人の倫理の問題ではない。思想を商品化する産業そのものの限界だ。確信を演出しなければ売れない。疑いを残せば買われない。だから必然的に、完結した答えの形を取らざるを得ない。だがその完結性こそが、最も危うい。

物語の外側に立つということ

物語駆動型経営を提唱する論考は、「優れた入口」である。企業が数字やロジックだけでは動かないこと、意味や方向性が共有されていないことが組織の機能不全を引き起こすこと、これらの指摘は正当だ。だが同時に、それは「意図的に閉じられた出口」でもある。

本当に一段上の思考に到達するためには、次の問いが必要だ。物語を持たない自由はあるのか。物語を意図的に分裂させておく勇気を持つことは可能か。それは語りにくく、売りにくく、美しくもない。だが、最も壊れにくい組織のあり方かもしれない。

物語の統合ではなく、物語の複数性を意図的に維持すること。物語の一貫性ではなく、物語間の緊張関係を組織の活力源として認識すること。物語の強度ではなく、物語の可変性を設計すること。これらは、確信の産業としてのコンサルティングとは相容れない思考だ。

物語駆動型経営という言葉が持つ魅力は、その完結性にある。それは混沌とした組織に明確な方向性を与え、迷いに満ちた意思決定に軸を提供し、バラバラな個人に共通の意味を与える。だが、その完結性こそが最大の罠でもある。

物語の外側に立ち、物語そのものの構造を問い続けること。物語を作る前に、物語を壊す方法を設計すること。物語の必要性を語ると同時に、物語の危険性を明示すること。これらができて初めて、物語は思想としての成熟に達する。だが、それは商品としては成立しない。

ここに、思想と商品の本質的な境界線がある。思想は疑いを生み、商品は確信を売る。物語駆動型経営が思想として深化するのか、商品として洗練されるのか。その分岐点は、最も売れない問い - 「この物語が間違っていたとき、どう壊すのか」 - に真正面から向き合えるかどうかにかかっている。

So I'd like to start off with my own irrationalities.

I don't think syntax should dangle in the wind. I'm with Aristotle. I think
things should have a beginning, a middle, and an end. Which means I like K&R
bracketing. I do not like the way that Python hangs stuff out there, with no
end.

I think that ordinary people dislike abstraction. That's because I dislike
abstraction and I think I'm ordinary. (laughter) I might be wrong about that,
but I don't know.

I simultaneously believe that languages are wonderful and awful. You have to
hold both of those. Ugly things can be beautiful. And beautiful can get ugly
very fast. You know, take Lisp. You know, it's the most beautiful language in
the world. At least up until Haskell came along. (laughter) But, you know,
every program in Lisp is just ugly. I don't figure how that works.

I think visual metaphors are very important. How it looks. Different things
should look different. Similar things should look similar. A language designer
simultaneously has to care what other people think, and has to not care what
other people think. Otherwise you go crazy. Well, crazier. (laughter)

And finally, I think God has free will. And therefore he created programmers
with free will and that they ought to be given choices.

    -- Larry Wall
    -- Present Continuous, Future Perfect ( http://www.perl.org.il/presentations/larry-wall-present-continuous-future-perfect/transcript.html )

The two most common elements in the
universe are hydrogen and stupidity.

	-- One of Nadav Har'El's Email Signatures.


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